ほそみ <その5>

 美しく平和な余呉の庄を訪れた鳥共は、果たして武者か、あるいは天女か。
 山本は「余呉の海、路通、芭蕉」の中で、遠祖横山長隆の墓参を契機に「この句の味わいが少し違って感ぜられるようになった」と述べている。山本は「少し違って感ぜられる」と書いているが、はなから鳥共を天女とは思ってはいない。つまり実際に余呉の庄に立ち、地の人から賤ヶ岳合戦の武将の話や墓を見る事で、従来文献等の知識で漫然と思っていたことが、より現実味を帯びてきたということであろう。その思いを山本は以下のように述べている。

 「細みは句意(くごころ)にあり」(『去来抄』)と言われた。その「句のこころ」を、これまでより少し立ち入って考えるようになったのである。湖畔のあちこちに眠っている大勢の戦死者たちを思うことで、この句の「寝入っているか」という詩句が、急に生き生きとして見えてきた。(山本健吉「余呉の海、路通、芭蕉」より)

 山本が武者説をとる理由はもう一つある。賤ヶ岳合戦が行なわれた時期である。路通の句が山本の予想するように『おくのほそ道』行脚の終盤に読まれたとすると、元禄二年(1689)八月である。賤ヶ岳合戦は天正十一年(1583)なので、路通句が読まれた時代から約百年前の話である。その後、余呉の近くでは、関が原の戦い(1600年)があるが、それ以降戦らしい戦はない。芭蕉や路通の育った上方では、戦の話と言えば家康が天下を取った関が原の戦いより、秀吉が天下を取った賤ヶ岳合戦の話が、はるかに多かったであろう。現代の我々が、日本が敗けた太平洋戦争を語るより、約百十数年前の日露戦争に興味が湧くようなものである。居酒屋で『坂の上の雲』の秋山兄弟の話に花が咲くように、芭蕉の時代は、まだまだ賤ヶ岳合戦の英雄の話が、生き生きと語られていた筈である。

画像
         <高館にある義経堂(ぎけいどう)>
         芭蕉は陰暦五月十三日に訪れている。

 山本はこの後、『猿蓑』の歌仙「初しぐれ」を引き合いに路通句の鳥共が武者であろうという鑑賞をするが、それはどうでも良い。大事な点は、その後の山本の指摘である。芭蕉が『奥のほそ道』の旅中で作った句、

  笠嶋やいずこ五月のぬかり道   (中将実方の塚)
  夏草や兵共がゆめの跡      (奥州高館)
  むざんやな甲の下のきりぎりす  (加賀の小松多田神社)
  荒海や佐渡によこたふ天河

を取り上げ、芭蕉は路通句をこれら自分の句と同列に捉え、同種の発想を路通句に読み取っていたという推測である。さらに続く山本の文章に私は驚いてしまった。私が密かに抱いていた路通観を山本はいとも簡単に言及していたからだ。

 同種の発想とは、その土地にちなむ故人への廻向(えこう)の一句として、それが詠まれているということだ。新しい歌枕の発見と、それは言ってもよかった。しばらくでも芭蕉の側近にあった路通が、芭蕉の句の作られるそのような機微に通じていなかったはずはなかったのである。(山本健吉「余呉の海、路通、芭蕉」より)


画像
        <久富哲雄『写真で歩く奥の細道』>
      『おくのほそ道全訳注』と共に愛読している。

 「ほそみ」と芭蕉の路通観は非常に深い関係があると私は見ている。この件については後で触れたい。ここまで読み進めると冒頭に触れた「ほそみ」の解釈、特に井本農一の「ほそみ」観が、ぐっと重みを増してくるのである。

 微少なものを通して、その背後の自然や人間の本体をつかむ心、またそういふ心が句意に反映してゐること。<井本農一>

<つづく>

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この記事へのコメント

酢豚
2013年02月05日 18:18
少しずつ核心に近づいてきましたね。
ますます楽しみです。
げったむ
2013年02月05日 23:34
次回の掲載多少不安ですが、評価を戴きたいと思います。明日は雪とか・・・。しかし日差しは確実に春です。どうぞご自愛の上お過ごし下さい。

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