行って見たところ<鹿島・その2> 「根本寺」

 芭蕉の鹿島詣は貞享四年(一六八七)八月十四日早朝に江戸を発っているが、江戸への帰着日は不詳のようである。鹿島からの帰路、潮来の自準を尋ね三吟を巻いたのが二十五日頃と言われているので、鹿島・潮来には十日以上は滞在していたようである。それにしても芭蕉の移動は敏捷である。早朝に芭蕉庵を発ち夕方には布佐に到着している。布佐では「よひのほど、其漁家に入てやすらふ。よるのやど、なまぐさし」とあるから夜船の出立まで漁家で時間待ちしていたようである。

 布佐は前章で紹介したように鮭漁が盛んで、その漁家も生臭いと芭蕉は言う。しかし八月では未だ鮭の遡行には早いから「なまぐさし」は、「白氏文集」にならったものであろう。夜船で利根川を十一里下り、十五日早朝には鹿島に着いている。しかし何処に接岸したかは述べていない。中村俊定校注の『芭蕉紀行文集』(岩波書店)の地図によると、着いたのは潮来になっている。しかし私の推測では、鹿島の大船津ではないかと思う。利根川は現在の千葉県東庄町の利根川大橋辺りで霞ヶ浦・北浦から流れ出た川と合流する。鹿島に向うには、そこから利根川に別れを告げて北浦に向けて北上しなければならない。もし潮来に接岸すれば鹿島へは再度船で北浦を渡らなければならない。それよりは直に鹿島側の大船津で下船した方がはるかに近い。また芭蕉が目指す根本寺は、その大船津から一キロ足らずの距離にあるからだ。

 四十年前、私が鹿島に通う頃は潮来側から鹿島側の大船津まで神宮橋という長い橋が北浦に架かっていた。それも何故か並行して橋が二つ架かっていた。下流の方の橋は赤い擬宝珠のある欄干をもつ洒落た橋であったが、通行禁止であった。後で地元の人に聞くと、戦時中に戦車が通り中央部の橋桁が墜ちたため、その横に戦車が通れる頑丈な橋を新設したという。鹿島に行き始めた頃、その大船津の橋の袂に「浜屋」という古い割烹旅館があり数回投宿した事がある。蒲団や風呂が汚いので閉口した記憶がある。どうも割烹料理が本業のようで、仲居とも芸者ともつかない媼が数人いた。

 当時鹿島は新産業都市として工場建設ラッシュ期に当り、宿泊施設が払底していた。間もなく会社が潮来町の延方というところに出張者用の宿泊施設を新設したので我々はそこに移った。今回、久しぶりに神宮橋を渡ったが、例の情緒のある橋はすでに撤去され、代わり上流側に国道五十一号線の鹿島バイパスが通り新神宮橋という立派な橋が架かっていた。驚いたのは見覚えのある「浜屋」が、当時その儘の姿で橋の袂に残っていたことである。バイパスが出来たことで時代に、しっかりバイパスされてしまったような佇まいは胸を打つものがあった。現在はいざ知らず、当時は鹿島へは神宮橋で大船津に渡るしか方法がなく出退勤時の渋滞は大変なものであった。このような経験をもつ私には、昔から鹿島神宮参拝の玄関口であった大船津で芭蕉が下船したという思いが強い。

 根本寺は予想通り小さかった。寺院と僧坊が一緒になった小さな寺で、住宅地の隅に忘れられたように、ひっそりとあった。

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            <鹿島・根本寺> 
    碑文によれば推古天皇の勅命で聖徳太子が創建。開祖
    は高麗の僧正恵潅。鎌倉期、幕府の庇護を受け栄える
    が南北朝のころ一時衰退。その後鹿島氏・佐竹氏の支
    援を受ける。江戸時代、徳川氏より鹿島神領のうち朱
    印地百石を寺領として給されていたが、神宮側との寺領
    紛争が頻発。江戸での芭蕉・仏頂の邂逅も仏頂が当時
    の根本寺和尚として係争追訴のため江戸に来ていた時
    といわれている。 

 鹿島に着いた一行は、さっそく根本寺を目指す。 

    ひるよりあめしきりにふりて、月見るべくもあらず。
    ふもとに、根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、
    此所におはしけるといふを聞て、尋入てふしぬ。
    (芭蕉『鹿島詣』)

 「ふもと」は「麓」で、当時根本寺の背後は小高い岡がありその麓に根本寺があったと伝えている。今回根本寺を訪ねてみると寺の背後は岡というより台地状で見上げると鹿島高校の校舎が見えた。その鹿島高校には鹿島城山公園が隣接してあり地名が「城山」とあるので、芭蕉が訪ねたころは鹿島城郭の下(ふもと)と解すべきであろう。

 芭蕉が仏頂を訪ねた理由は月見であったが、到着した日は生憎雨模様で月見は出来なかった。翌日の明け方になり、やっと月が雲間から顔を出したようだ。旅の疲れで熟睡していた一行は仏頂に起こされ、ようやく雲間の月見が叶う。そのとき仏頂は和歌を芭蕉達は発句をそれぞれ詠んでいる。

 
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           <根本寺の芭蕉句碑>
        寺に寝てまこと顔なる月見哉    桃青
     明け方ようやく出た月を見て詠んだ二句のうちの一句。

 境内左手には、このとき芭蕉が詠んだ句の真新しい立派な句碑が建っていた。この句の「まこと顔」が実に印象的である。西行の「かこち顔」を思い出す。

      嘆けとて月やはものを思はする
            かこち顔なるわが涙かな    西行

 芭蕉はこのとき西行を思い出していたのではないだろうか。西行は恋の涙を月のせいにしているが、芭蕉は逆で「まこと顔」は師に会う時、あるいは寺にいるときだけ「まこと顔」の心境になる自分を恥じていると解釈できる句を詠んでいる。ものの本のよると、西行には「○○顔」という表現が多いらしい。このような口語的な表現は、当時雅を重んじた歌壇重鎮(藤原俊成、藤原重家など)は嫌っていたらしい。しかし西行は平気で使用したらしい。

 私は何ゆえ芭蕉が、この時期に鹿島詣を思いつき仏頂和尚を訪ねたのかが気になる。芭蕉の鹿島詣は、「野ざらし紀行」と「笈の小文」の中間に位置する紀行に当たる。実際、この一ヶ月後には「笈の小文」の旅に出る。

 芭蕉は前々年、九ヶ月に及ぶ「野ざらし紀行」を終える。その後貞享三年春には有名な「蛙合」を行い、続いて『冬の日』・『春の日』の上梓を実施、この時期新風への手ごたえをしっかりと掴んでいる。しかしその間、弟子たちとの交友や繁多な雑事も多く日々忙殺されて過ごしていたようだ。そのような生活を反省してか、芭蕉は前年の暮、

       月雪とのさばりけらし年の暮    芭蕉

という歳暮吟を詠んでいる。このような生活をしていては駄目になるという意識が日々強くなっていたようである。特に都市化を強める江戸俳壇を嫌い、自分の目指す新風のかたちを早く固めたかった。そのようなときに芭蕉の脳裏を横切ったのは、参禅の師・仏頂であり、風狂の先達・西行だったのではないだろうか。

 仏頂に会うため須磨浦の月にかこつけて鹿島の月見を思い立ち、数ある門弟の中から、それに相応しい同行者を選んだのではないかと思う。一人は前年の暮れ入門した「浪客の士」曾良であり、一人は「水雲の僧」宗波であった。芭蕉の新風の中心をなすものは禅である、そういうことを自覚しつつあったこの時期の芭蕉には、適切な人選であったと思う。

 このようなことを考え、しばらく根本寺で物思いに耽っていた。
 しかしそれも束の間、腰を上げない私に業を煮やす家人の声で我に返る。
 隣接する鎌足神社に向った。

 <つづく>

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