行って見たところ<鹿島・その4> 「鹿島神宮」

 鹿島神宮は常陸一ノ宮で勅祭社である。勅祭社とは、天皇の命により祭礼を執り行う神社をいう。その際、天皇の使が派遣されて奉幣が行なわれる。勅祭社は春日大社や明治神宮など日本に十六社あり、宮内庁の管轄に入るらしい。

 四十年ぶりに詣でる鹿島神宮であるが、正直その頃の印象は薄い。門前の商店街は綺麗に整備されてはいるが、どこか昔日の面影を留めているように感じた。門前町から境内に入る目安であった白い大きな石の鳥居は、残念ながら震災で倒壊してしまったらしい。大きな神社なのに拝観料はない。申し訳ないので代わりに社務所で『鹿島の神と諏訪の神』(社務所発行)という小冊子を二百円で求めた。

 本殿に向う参道の杉並木は流石に風格充分である。人手の入らない左右の原始林は、どことなく太古の匂いを漂わせている。当時はもう少し鬱蒼とした杉林だったように思うが新緑直後と言う季節のせいか、どことなく鬱蒼の密度が低いように思う。入口の倒壊した大鳥居に代わり新たに木製鳥居を現在製作中らしいが、その杉材はこの原始林から切り出されたものらしい。

画像
           <鹿島神宮参道>
    参道沿いに並ぶ杉の巨木の中には、参道への倒木を防
    ぐためであろうか、ロープで互いの幹を結び合っている
    ものがあった。震災時の余震対策がそのまま残っていた
    のかもしれない。

 求めた小冊子が面白い、副題が二つ付いている。一つは「東日本大震災の復興に向けて」、他は「今よみがえる神話の世界」となっている。以下その一部を掻い摘んで紹介してみたい。

 ◇ 東日本大震災
 東日本大震災のときは、本殿が鳴動し千木が落御し、日本一の石造大鳥居が最初の地震で罅が入り、二度目の余震で倒壊した。さらに果てしなく続いた余震は、参道・境内の六十二基の石灯籠も倒壊させたという。鹿島神宮は、その神祖が国譲り神話に於ける力比べに勝利したことから日本建国の功神と位置づけられている。このため大衆の間では勝負事の神として、また御神名(建雷紳)に因み雷の神、あるいは「鹿島立ち」という言葉から、事始・旅行安全・交通安全の神としても広く信心を集めている。さらに、この鹿島神宮の杜の奥深くに鎮座する「要石」の存在から、地震抑えの神としても有名である。その地震の神が、何故に震災七日前の予兆を見逃して、あろうことか大震災を抑えられなかったのか。あまつさえ神宮史上初の千木の落御という事態にまで陥ってしまったのか・・・・・。(小冊子から)

 予兆とは、震災一週間前の三月四日、鹿島神宮の飛地「高天原」の海岸「下津の浜」に鯨五十二頭が打ち上げられたことを指す。この事態に対しての小冊子の記事が大変面白い。私は長い参道を歩きながら読み思わず高笑いし、すれ違う人から凝視されるほどであった。以下、小冊子からの引用である。

 この度の震災は綿津見神の知らせ(上記予兆を指す)があったにも拘らず、地震を抑える神と言われている私(鹿島の神)の力でも、<中略>抑えることが出来なかった。鯰に問いただしたところ、この度の地震を起こしたのは鯰ではなく、もっと大きな竜であったと思われる。(小冊子から)

と言い訳をしているのである。実は、この文章の前に安政の大地震にも触れたカ所があり次のように述べている。

 安政の大地震は十月二日に起きましたが、この月は神無月で鹿島の神は出雲大社に行っており、その留守に大地震が起きております。(小冊子から)

なんと大らかであろう、こちらは留守していたことを言い訳にしているのである。しかもあろうことか、ご丁寧に自分(鹿島神宮)を揶揄した当時の流行(はやり)戯れ歌まで紹介しているのである。

  揺るぐともよもや抜けじの要石 鹿島の神のあらん限りは
  揺るぐのに何故に抑えぬ要石 鹿島の神は留守か寝たのか
  (小冊子から)

画像
           <鹿島神宮 要石>
      要石は地表に出ている部分は丸い石ですがその
      先は地中深く刺さり、その先端で地震を起こす
      鯰の頭を押さえ込んでいると当時の大衆は信じ
      ていた。因みに「要石」は、香取神宮にもあり地
      表部の形状に差がある。鹿島のものは凹状で、
      香取は凸状であるという。

 安政の地震は「鹿島の神が出雲に出張中の出来事」、今回の震災の仕業は「鯰でなく竜」と見事に言い逃れているのである。しかし、「安全神話」を作った何処ぞの会社の「想定外」などという開き直りよりは、鹿島の神の言い訳の方が、はるかにユーモアがあり、どこか人間的(?)である。

 要石が地中深く鯰の頭を押さえているということは、今も興味ある話であるが、水戸の黄門様も甚だ興味があったらしく、家来に命じて要石の下を掘らせたことがあるらしい。しかし「七日七夜掘っても掘りきれず」遂に諦めたという話が伝わっている。(『水戸黄門仁徳録』)

 ◇ 千木の落御 
 同じ勅祭社である奈良の春日大社にある『春日社法』には、「非常の怪あれば上聞に達す」と記されている。そして、その「非常の怪」とは、「神殿鳴動、神鏡落御または千木落御」を指すとある。このため直ちに天皇陛下に奉告したという。因みに千木は二百四十キロの重さがあり、その千木落御は鹿島神宮社史上初めての出来事らしい。

 ◇ 「諏訪大明神祈祷神璽」の鹿島灘漂着
 また不思議な事に、丁度震災一ヶ月後の四月十一日、神宮に近い鹿島灘に「諏訪大明神祈祷神璽」と書かれた一メートル三十センチの大きな木の御札が砂と油にまみれて流れ着いた。調べてみると岩手県の陸前高田市にある諏訪神社のものと判明した。斎館に祀っていたものが津波にさらわれ漂着したらしい。諏訪神社といえば、国譲り神話に出てくる力比べの出雲側の代表で、鹿島の神と戦った言わばライバル紳である。この奇しき因縁に鹿島の神は、

 (この災難に)全国の天紳地祇が力をあわせて我が国の復興に当らなければなりません。<中略>諏訪の神と私が昔の国譲りの際のことにはこだわらず、二人で力を合わせることが大切です。(小冊子から)

と話された。このため神璽を綺麗に洗い陸前高田市へ送り届けたとのことである。

 奥宮を参拝したあと要石に向う予定であったが、予定を変え休憩所のある御手洗公園に降りて休んだ。予定を変えたのは、小冊子を読むためである。私の以前の記憶では、ここに売店などはなく、滾々(とうとう)と湧き出る御手洗池のみがあったと思う。今見ると御手洗池は立派な石造物で囲われて見違えるようである。後日見た文献によると、古くは海に面したこの御手洗池のある方が正式な参拝口だったようである。
 帰宅後、改めて境内案内図を見ると、要石の近くに芭蕉句碑が記されており悔やんだが後の祭りである。句碑は芭蕉が鹿島神宮参拝の折に詠んだ句ではなく、案内書によると、

    枯枝に鴉のとまりけり穐(あき)の暮    芭蕉

とある。この「枯枝」句は、ものの本によると「水墨画などの画題にある寒鴉枯木を十七音芸術に言い取った句」とあるが、その句がなぜ鹿島神宮で、さらに言えばなぜ要石の側なのかという説明はない。
 芭蕉の鹿島詣は八月中旬であるから、秋には違いないが「秋の暮」を詠うには早すぎる。ついでながら芭蕉が鹿島神宮を参拝したのは、仏頂和尚のもとで句を詠んだ翌日、八月十六日頃に鹿島神宮に参拝したようである。『鹿島詣』を読むと、芭蕉が鹿島神宮で詠んだ句は、「神前」と前書きのついた、

    この松のみばへせし代や神の秋     芭蕉

という一句のみで、至って素っ気無い。農事に忙しい田園風景を詠んだ句と、扱いは同列に扱われているように思える。鹿島神宮の地、鹿島に来てこの素っ気無さは何故であろうと、また考えてしまう。二つのことが考えられる。一つは鹿島を訪ねた目的が、一重に仏頂和尚に会うためであったこと。たぶんその時、仏頂和尚と芭蕉の間では、芭蕉が目指す新風俳諧を形成する上での重要な問答が交わされたものと思う。
 二つ目はさしたる理由ではないと思うが、当時鹿島神宮と根本寺は領地で紛争中で仏頂に私淑する芭蕉にとり鹿島神宮に多くを語る理由はなかったと言うことであろうか。  

<つづく>

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック