行って見たところ<鹿島・その5>延方周辺

 鹿島神宮の拝観を終え町に出ると、塚原ト伝と大書きした幟が数本はためいていた。NHKが塚原ト伝をドラマ化し放映中らしい。ト伝は室町時代、鹿島神宮の神官の子としてこの地で生まれ、剣術修行のため諸国を巡った。なんと相対した剣術者は二百人以上とか、しかも一度も負けたことがないという。その後鹿島に戻り鹿島新当流を開き、この地で没した。剣聖となったト伝の墓は鹿島神宮の近くにあり、今でも信奉者の墓参が絶えないという。

 再び神宮橋を渡り潮来方面に向う。途中右折しJR鹿島神宮線のガードを潜ると、昔お世話になったK寮がある。国道五十号線沿線の光景は前章でも述べたが、一変しており右折場所が分らない。何度か迷い、ようやくK寮があった場所に辿り着いた。確かこの辺と速度を落とした時、視界の隅に見覚えのある青い平屋が飛び込んだ。 驚いた!K寮があった!

画像
             <K寮>
      会社の鹿島営業所(当時)の運転手をしていた
      Kさんが、当時逼迫していた宿泊施設の状況
      を見て自宅の敷地に建設した。ピーク時には
      二十五、六人の宿泊者がいた。

 車から降り、つくづくとK寮を眺めた。懐かしい! K寮は、Kさんの母屋続きに増設した構造であったが、見ると母屋はすでに無く、母屋に接していた寮の右側半分の建物は無くなっていた。母屋の跡地にはレストラン風の真新しい食堂が建っている。その日は月曜日であったが、定休日だろうか、店は閉っていて人気が無かった。当時息子さんは潮来ホテルの板前をしていて、母屋の離れに夫婦で住んでいた。確か我々が居る間に長男が誕生していたから、店はすでに代替わりしているかも知れない。

 我々寮生は週末に帰京し、平日はここから某製鉄所に通う生活を約二年間続けた。当時は鹿島コンビナートの建設ラッシュで、工事関係者が鹿島・潮来に溢れ返っていた。そんな状況からK寮の開設に踏み切ってくれたKさん、及びKさん一家には大変お世話になった。寄宿者である我々の賄い・掃除、果ては我々の洗濯まで、Kさんの奥さんとお嬢さん、さらに長男のお嫁さんが、ほぼ専従でやって呉れた。元潮来タクシーの運転手であったKさんは、我々が通勤用の車を持つまで、自家用車で得意先に送ってくれたし、車を持ってからも土地勘のない我々に渋滞時の抜け道などの土地の情報を教えてくれた。Kさん夫婦が亡くなったことを風の便りに聞いたのは、もうだいぶ前のことになる。

 その頃の或る日の朝、多分夜勤明けだったと思うが、K寮の前の舗道を歩いていると、突然大きな真っ白な帆が青田の上を滑って行った。あっけに取られて見ていると左手にさらに白い帆が何隻も続いて居るのが見えた。この光景に驚いた私は「八幡船(ばはんせん)だ!、八幡船だ!」と、わめきながらK寮に駆け込んだ。その時寮に居た数人と眺めた光景は、一生忘れないだろう。「八幡船」ではなく正式には「帆曳船(ほびきせん)」と呼ぶそうだが、朝の湖水に浮かぶその船団は見事なもので、まるで夢を見ているようだった。当時我々には、それが霞ヶ浦・北浦の風物詩で公魚(わかさぎ)漁をする帆曳船だという知識は全く無かった。真っ白な帆がはち切れんばかりに風を孕み、等間隔で音もなく船が滑って行く光景を、我々は何か一時代タイム・スリップしたような面持ちで見守っていた。

画像
       <帆曳船(ほびきせん・ほびきぶね)>
    霞ヶ浦・北浦のみで使用されていた公魚漁用の小型帆
    船。霞ヶ浦では1966年頃、北浦では1980年頃完全に
    姿を消したが、1971年に霞ヶ浦での操業が観光目的
    に再開された。(アンサイクロペディアより、写真も)

 「同じ釜の飯を喰う」という言葉があるが、あの頃の仲間が懐かしい。同室だった一年後輩のM君とは、今でも賀状の交換をしている。免許がないのに通勤車を買い遂に無免許で通したH君、いつもは紳士なのに飲むと凶暴性を発揮したNさん、仕事はそこそこだが麻雀は滅法強かったM君、唯一彼女がいて鹿島は陸の孤島だと、ぼやいていたF君。

 だが思い出の中心は何と言っても先輩の○さんである。K寮に定住し東京の職場に戻らないので有名だった。ある日○さんが我々を部屋に招き入れ、畳一畳に一万円札を並べ始めた。そして遂に一畳を万札で蔽い尽くし我々を驚かした。当時は給料の他にそれ以上の出張費が毎月入ったが、「陸の孤島」では使いみちがなかったのである。その話が東京の職場まで伝わり、鹿島行きを希望する若手社員が急増したという後日談がある。その○さんが、たまにする遊びは豪快極まるもので数々のエピソードを残した。

 ○さんは、寮生の一定の信頼を集め、慕われていた。 その○さんが、得意先のトイレで密かに且つ度々嗚咽を洩らしていたことを私は知っている。得意先には外資系Ⅰ社の大型計算機も導入されており、得意先からは常にそれと比較された。後発国産メーカーである我々は、常に劣性に立たされていた。今から思うと、何とも辛い時代だった。○さんは仲間内では常に希望の灯で、その後主要子会社のトップ迄登り詰めた。

 けたたましい犬の鳴声で我に返った。車から降りてK寮を眺め、レストランに近づいて店の様子を窺う我々に、犬が気付いたらしい。どうもK寮の裏側に住居があり、そこの番犬が吠えているようだ。私はK寮の内部を見たい衝動に駆られ、窓から内部を窺うが、カーテンと部屋の暗さでよく見えない。勿論入口・窓には鍵が掛っている。住人に挨拶をしようとK寮の横を通り裏側の住居に回り込もうとするが、番犬が鎖を引き千切るほどの剣幕で吠えまくる。

 途方にくれ佇むと、そこにK寮の側壁が一部が壊れ、そこから内部が見えた。これがまた懐かしい!四十年前の光景が目に飛び込んで来た。浴室である。壊れた側壁の一部が浴槽に崩れ落ち、見るに無残な姿を呈していたが、四十年前と同じピンクのタイルがそのままであった。当時は最新式の風呂で、仕事に疲れた身体を癒したものである。二人で入るのは少々狭いが、混み合う時間には気のあった者同士で背中を流し合ったものである。

画像
            <K寮の浴室>
      当時最新式のバス・システムで、追い炊きや
      温度調整が浴室内のボタンで操作できた。
      そのボタン・ボックスも壁に残っていた。

 けたたましい犬の鳴き声で、裏の住民が出てくるのを期待し暫らくそこに佇っていたが、その気配がまったく無い。諦めて再びK寮の正面に立ち青田の彼方、北浦の空を見ながら精一杯空気を吸い込んだ。

< 了 >







ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック