行って見たところ 湯抱 <その4>

 昭和九年に発行された『鴨山考』を、当時旧制中学生だった古田武彦は貪るように読み耽ったという。やがて、その古田少年も成人し教職に就き、当然のように人麻呂研究に入った。そして皮肉にも『鴨山考』を否定する側に立つことになる。『鴨山考』を最も激しく否定したはのは梅原猛であったが、その梅原もまもなく古田等によって批判される。私が読んだ僅か数冊の人麻呂研究の本においてさえ、このような関係が生じている。茂吉が『鴨山考』で、いみじくも述べているように「鴨山は永久に不明」なのであろう。

 私には、今のところ古田の浜田説が最も説得力のある論のように見える。つまり浜田市に注ぐ浜田川の氾濫による人麻呂死亡説である。しかし茂吉の『鴨山考』は現在でもある種の迫力をもち読み手に迫る。その迫りくるものは何であろうか。それは紛れもなく梅原、古田等が、口を揃えて批判したもの、『鴨山考』全編を貫いているものではないかと思う。つまり茂吉の実作者としての直感である。少なくとも私にはそう思える。現地で山をそして川を見、さらに土地の人と話しをしながら人麻呂とその妻依羅娘子(よさみのおとめ)が遺した歌を口ずさみ判断する。その姿勢が読み手を打つのではないかと思う。これは私が俳句の実作者であるからであろうか。

 しかし茂吉の直感は単なる机上のものではない。例えば文献による事前調査は勿論であるが、奥出雲に入り郷土史家の話も十分聞き込んでいる。茂吉が特に拘ったのは人麻呂が歌った「鴨山の磐根し枕ける」の句であろう。茂吉は和歌の実作者として、人麻呂になり変わり「磐根し枕ける」鴨山を探し回り、そして湯抱に辿り着いた。

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            <湯抱温泉の祠>
      温泉の真ん中を横切る女良谷川に架かる橋の
      袂にひっそりとあった。ひと目見て、てっき
      り人麻呂像と思い、流石に人麻呂終焉の地で
      ある人麻呂神社を分祀しているのだと思った。
      しかし帰宅し写真をよく見ると人麻呂像では
      なく恵比寿像と分った。しかし良く似ている。

 話は変わるが古田武彦は著書の中で「近世はいいなあ」と呟いている。

 「近世はいいなあ」わたしの実感だった。いつもやっている古代だと、こうはいかない。裏づけ文書の新しい出現など、期待しがたいのだ。親鸞などやっていたとき、「中世」の場合も、裏づけ文書の出現など、とても。それに比べると、近世はいい。 (古田武彦著『人麿の運命』)

 つまり、現在でも文書の新発見が時々新聞記事になる近世研究に比べ、新文書発見など望むべくもない古代研究のもどかしさを嘆いているのである。言うなれば人麻呂研究は決定的な証拠物件が出ないことを前提に、結局は推測の域をでない研究なのであろうか。となれば、これは人麻呂研究に限らず古代に関する研究は、そのようなことが宿命的に付きまとう研究なのかもしれない。それでも研究者が後を絶たないのは何故か。それはよく言われる「古代へのロマン」であろうか。人麻呂がもつ数多くの伝説は、それを一層かきたてているようだ。人麻呂は「古代ロマン」が見える入口なのかも知れない。

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<人麻呂像 (梅原猛『水底の歌』)>       <恵比寿像>
          
   それにしても良く似ている二つの像である。伝説によれば
   二人の終焉は共に水死であるという。海から水死体が上が
   れば「エベッサン」と呼び豊漁の吉兆として水死体を懇ろに
   葬った伝説が各地に数多くある。

 ともかく人麻呂の研究は文書(もんじょ)に頼れない部分が多いことから様々な方法が採用されてきたように思う。例えば先にあげた詩人の直感を駆使した斎藤茂吉の例や、八世紀の政治状況からアプローチした梅原猛の例、さらには折口信夫の民俗学的アプローチなどがその例である。今まで触れなかったが、折口の民俗的アプローチによると、人麻呂は一人ではなく累代世襲あるいはグループであった可能性を示しているが、この説も興味ある説ではないかと思う。

 またその間に、これは滅多にないが時には文書ではなく考古学的な遺跡の大発見があり、古代研究家の推測に決定的な影響を与えることがあるようである。近年では昭和五十九年の出雲の荒神谷遺跡と、その数年後の加茂岩倉遺跡の大発見がそれにあたる。この考古学的大発見は、人麻呂研究にも大きな影響を与えている。つまり人麻呂研究に重要な古代出雲文化をどう捉えるかで人麻呂像が大きく変わるからである。

 例えば梅原の説では古代出雲には重きを置いていない。「出雲には記紀の神話はあれど、事実(遺跡出土)がない」という立場をとり、出雲にさしたる文化はなく九州および近畿圏、特に近畿圏が文化の中心地であったという立場に立っている。このため大国命・事代命、スサノオ命の出雲での活動は虚構であり、人麻呂も活動の本拠地は大和にあったという立場に立っている。この大発見は直ちに梅原の説に不利に働いた。具体的には早速、古田が梅原に噛みついたのである。

<つづく>

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