円の発想 <その3>

 日本人がもつ二つの人種の特徴とは何であろうか。私は端的に次のように思っている。先ず縄文的とは「平等」の思想であり相互互助の精神で、弥生的ということは「不平等」であり区別の精神である。良い意味で前者は心の安寧を、後者は進歩を日本人にもたらしてきたのではないかと思う。両者の特徴は夫々における長年の生活環境に起因していると思われる。縄文人の祖、原アジア人は自然に恵まれた温暖な地で狩猟採集の生活を送っていた。他方、氷河に閉ざされた厳寒のシベリアで数千年を過ごした中国人系民族は、過酷な生活を強いられたと思われる。この差が双方の人種に決定的な差をもたらしたと思われる。どちらが良い悪いは言えない。この対照的で相矛盾した人種の混血が日本人の原型を形作っているのではないか。

 しかし、そのような日本人の資質は、欧米人からは中々理解されないようだ。ジキルとハイドが同居しているようなものである。この複雑な日本人の精神構造は、自然人類学の埴原和郎により「二重構造モデル」と命名され、現在の日本人起源の最もポピュラーな学説になっている。ついでに両者の体型的な特徴を上げると、縄文人は背が低く角張った顔に大きな目と高い鼻をもち、弥生人は長身面長で小さい目と低い鼻をもっていたらしい。また人口は一説によると先住した縄文人の規模が約30万に対し、渡来した弥生人は100万人の規模で度々繰り返されたという。このため二つの人種の交配は数の上からは、中国系民族が圧倒していたようだ。

 つまり数の上からは圧倒的に中国系民族の遺伝子が優位である。しかし私はそうは思いたくない。理由は二つあり、一つは原アジア人(旧モンゴロイド)が人種的に本流であること、二つ目は大陸からの移民は混血しているものの新興中国系民族に追い出された比較的ピュアな原アジア人が主であったと思うからである。遺伝学の知識はないが、中国系民族(新モンゴロイド)は原アジア人から派生した人種である。つまり日本列島に先住していたピュアな原アジア人(縄文人)に加えて、中国系民族に追い出された比較的原アジア人に近い(大陸に残った民族に比べて)渡来人が、日本人の原型ではないかと思う。

 さて、ここまで書いて来たが、今私は少々暗澹たる気持ちでいる。私は俳句(俳諧)という芸能が日本人の心の基底に関わる文芸で、その源流は縄文時代に遡るということを書きたかった。しかし期待していた学問が、縄文時代という気の遠くなる時間の闇には、かなり無力であることが判ってきたからだ。私が縄文時代に拘るのは「文学はアミューザンでなければならない」と言った柳田国男の言葉にあった。柳田は戦後の学問を「借り物の学問」あるいは「書物本位の学問」と批判した硬骨漢である。前者の言は西洋べったりの学門界の風潮を、後者は本から得た知識を優先して現物・現場・体験をさらに言えば人間の心をないがしろにする学風を皮肉ったものであろう。

 柳田の憂慮は文学面にも及び、終戦直後『第二芸術』論に翻弄されていた俳人を痛切に哀れんでいる。柳田は戦後のGHQ占領下における行動的制約から俳壇に直接関係することはなかった。しかしその考えはやがて柳田民俗学に共鳴し柳田に私淑していた折口信夫の影響を受けた山本健吉によって俳壇に大きな影響を与えている。つまり『第二芸術』論で荒廃した俳壇正常化させたのである。著名な『純粋俳句』を著し、極端な西洋文学の影響を受けた新興俳句や前衛俳句から世の俳人たちを救ったのである。簡単に言えば西洋の物差から日本人の物差に戻し『第二芸術』論以後の俳壇の混乱を救ったとも言える。つまり日本人に戻り日本の文学を考えればよいという当たり前のことを気付かせたのである。私はこの『第二芸術』論を追っているときに柳田の「アミューザン」を知ることになった。

 そして柳田の 「アミューザン」を追いかけているうちに、ふと気付くと縄文の世界に迷い込んでいた。だがそこでは、期待していた考古学が予想以上の苦戦を強いられていた。その大きな原因は、比較的文字の誕生が早かった西洋考古学の影響をまともに受け「モノ」、つまり物的実証中心の考えに捉われ過ぎて自縄自縛状態に陥っていた。私にはどうも『第二芸術』論下の俳壇と似たような状況にも見える。その考古学界が最近、ようやく元気を取り戻している。

画像

       <三内丸山遺跡> 写真は公式HPから
   青森県にある三内丸山遺跡は、従来の縄文文化のイメージ
   を一新させるほどの多くの事実を我々に突きつけている。
   当時ここは日本文化の中心地と言っても過言でないほどに、
   独自の文化を持った先進都市であった。

 例えば三内丸山(青森)の遺跡調査の成果である。この成果は世界的にも注目されている。それは各国から見れば羨ましいほどの潤沢な調査費用(やっと日本もここまで来た)もさることながら、仮定を大胆に取り入れた実証や、民族学、言語学、医学、栄養学、遺伝子学等の関連学問と積極的に交流を図るという大きな方針転換をしたことにあるようだ。そして注目すべきは、その成果が従来の縄文時代のイメージを大きく覆していることだ。例えば以下に挙げる小山修三氏の文章のように暗く原始的な従来の縄文のイメージを大きく変えつつある。

 縄文人はなかなかおしゃれで、髪を結いあげ、アクセサリーをつけ、赤や黒で彩られた衣服を着ていた。技術レベルは高く、漆器、土器、織物までつくっていた。植物栽培がすでにはじまっており、固有の尺度をつかって建物をたて、巨木や盛り土による大土木工事をおこなっていた。聖なる公共の広場を中心に計画的に作られた都市があり、人口は五〇〇人をこえたと考えられている。ヒスイや黒曜石、食料の交易ネットワークがあり、発達した航海術によって日本海や太平洋を往還していた。その行動域は大陸までおよんでいたらしい。祖先を崇拝し儀礼にあつく、魂の再生を信じている。ヘビやクマなどの動物、大木、太陽、山や川や岩などの自然物を感じるアニミズム的な世界観をもっていた。 (小山修三『縄文学への道』「はじめに」から)

 小山氏が述べるように、驚くべき事実が次々に発表されている。つまり縄文中期から後期にかけて①都市社会、②大陸や東南アジアとの交易、③技術集団、④アニミズム的世界観という弥生時代と遜色の無い社会生活を送っていたようである。特に国内における物資の移動や社会構成は従来の予想をはるかに超えるものである。小山氏は少なくとも1500年は続いた青森県の三内丸山や、その後の亀ヶ岡文化(縄文晩期)は、西日本の邪馬台国を頂点とする列強部族と同列に扱ってもよい文化をもっており従来の『魏志倭人伝』に偏屈した西日本中心の日本史から、日本列島全体という広汎な視点で日本史を再編する必要性があるとの見方を示している。

<つづく>

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この記事へのコメント

szk777@i.softbank.jp
2014年02月18日 05:38
しずかっていいますσ(゚∀゚*)me♪おはつですん。伊藤無迅さんのブログ好きすぎます☆・゜゜・*:.。.d((o・c_,・o))b ィィジャン・゜゜・*:.。今日は恥ずかしかったけどコメントしちゃいましたσ(^○^)実は最近、伊藤無迅さん自 身にも興 味がですね…モォ(*ノ∀`*)ノャダァァン☆もしよかったら、仲良くなりたいなってσ(゚∀゚*)me♪連絡くれたら嬉しいな(*^_^*)それじゃ待ってますです(o≧∇≦)o

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