円の発想 <その13(完結編)>

 前章では日本人の「ホームポジション」が希薄になりつつあることを述べた。それは取りも直さず「日本人」の心の喪失を意味していると思う。これから書きたいことは俳諧・俳句の心は、日本人の心を取り戻すことに直結しているということなのであるが、たぶん話は相当に飛躍すると思っている。

 唐突な話になるが、三十代の頃にSF小説を読み耽ったことがある。そこで作家、半村良を知り、その作品『妖星伝』を知った。半村良は、その後一般小説に進出し直木賞作家となったが、SF小説の分野でも「伝奇SF」という独自のジャンルを開拓し『石の血脈』などの傑作を残した。長編『妖星伝』は結局未完に終わったが、着想が実に面白かった。細い内容は忘れてしまったが、そのストーリーだけは強烈に記憶に残っている。その後、映画「エイリアン」が流行したが、その内容は『妖星伝』の二番煎じではないかと思った。

 『妖星伝』は、冒頭、遠い星から地球に降り立った異星人が「この星は、なんて醜い星だ!」という第一声で始まる。その醜い理由が面白い。全ての動・植物が自己の生命を守るため、壮大な殺し合いを地球的規模で日常的に展開していることにある。それを見て、その異星人は直感的に自分たちの星を破壊したエイリアン(当時この言葉はなかった)が先に地球に侵入しているとの疑いをもつ。かつて彼らの星は平和であったが、異星からエイリアンが侵入、結局その星の資源を食潰してしまった。このため星がバランスを失い他の星と衝突する直前に宇宙船で脱出、長い時間をかけて自分達の星と似た地球に辿り着いたのである。しかし、地球の醜い姿を見て地球も自分達の星を破壊した例のエイリアンが、すでに地球に侵入済なのではないかと疑う。エイリアンの侵入は巧妙で、密かに原住生物の遺伝子に侵入する。このため表立っては侵入が分からない。遅れて地球に着いた彼ら(先住民:ネイテブ;Native)は、やがてこの星(地球)で生きるためにエイリアンと戦うことを決心する。

 『妖星伝』のストーリーは大体以上の通りである。若い私は、半村良の描く雄大な構想力に魅了された。当時の私には、遠い異星から来たエイリアンがアーリア人(そう云えば発音も似ている、Alien:Aryan)、ネイテブ(先住民)が日本人に見えたのである。当時は欧米の大国が競って月や火星に探索ロケット打ち上げていた時期でもあった。産業革命以後ひたすら経済拡大に邁進してきた西洋諸国は、もはや自制の効かなくなった自由市場経済に見切りをつけ、地球資源が枯渇する前に地球を脱出しようと考えているのではないかと本気で思ったものである。

 また、当時三十代であった私には、日本はダブル・スタンダートの国と信じて疑わなかった。理由は二つあった。一つは田舎に帰省し、職場のある都会に戻る時の厭世感である。私の田舎は東北南部の普通の街であるが、当時健在であった母や友人とで過ごした数日間は、職場のある都会生活とは全く異質の世界に思えた。帰京時、東北本線で宇都宮を過ぎる辺りから、徐々に心を都会モードに切り替えるのが常であった。つまり価値観の違う二つの世界(田舎/都会モード)が厳然として存在していたのである。二つ目は一日一回発生する価値観のモード・チェンジである。つまり職場モードと家庭モードである。このモード・チェンジは、たぶん私だけではないだろう。意識するかしないかの違いはあるが、誰もが行っている行為である。この切り替えに失敗すると大変なことになる。会社であれば無能者と見なされ、家庭にあれば家庭内不和を引き起こし、田舎に入れば絆の破壊者として要注意人物と見なされる。時には、その社会から除外されてしまうこともある。

 私が味わっていた、この二つのダブル・スタンダードは明治以降の近代化に伴い発生したもので、日本人が罹る副作用のようなものであると思っている。つまり都会モードと職場モードは近代化によりもたらされたアーリア人主導の世界、田舎モードと家庭モードは旧来からあった日本人のモード、つまりネイテブ・モードであろうと漠然と思っていた。『妖星伝』は私から見れば現実生活の投影と見えていたのである。

 ところが、現役を退いてから周囲を良く見ると、当たり前と思っていたモード・チェンジが出来ない/しない人が意外に多いことに気がついた。身近な例では会社時代の友人である。リタイア後に精神的に変調をきたしている友人が結構多いのである。自閉症、いじめ、自死などが社会的に問題になっているが、私には上記のモード・チェンジが上手く出来ない/しないことに原因があるのではないかとさえ思っている。

 さらなる問題は、日本人全体が徐々にモード・チェンジをしない、つまり都会/職場モードだけを持つ日本人が増えているように思うことである。特に長年会社勤めを過ごした中年の男性や、若いエリート会社員を見るとそう思う。考えてみれば、モード・チェンジしない方が楽なのだ。生活の全ての場面を本音で生きることは、最も安易で快適な方法なのかも知れない。しかし大体そういう人間ほど傲慢で、場の空気が読めない自己本位の人が多い。そのような人から見れば、ダブル・スタンダードを持つ人間は弱い人間、どっちつかずの「ダサイ」人間に見えるようだ。日本人が徐々にアーリア人化しているのは間違いないようだ。『妖星伝』で言えば、エイリアンに侵されているのである。縄文時代に根を置く日本人というネイテブ民族が、今や、エイリアンにより遺伝子操作でアーリア人化している途上にあるといってもよいほどの現象である。

 明治の先人が、この事態を予想していたかは知る術がないが、日本人のアーリア人化は近代化の当然の帰結として着実に進行している。『妖星伝』では冒頭でエイリアンに先を越されたネイテブ異星人が、地球でエイリアンと闘う決意をするが、残念ながらエイリアンと闘っている兆しは今のところ日本では見えない。

画像
           <縄文のシャンデリア?>
      山梨県釈迦堂遺跡から出土、正式には「釣手土器」
      と呼ばれており、縄文時代のランプと思われる。
      形状は幾つかあるが、いずれも縄で吊り下げたと
      思われる。中に油を入れ火縄で灯す、江戸時代の
      行燈の原型とも見れる。江戸時代までは、縄文が
      すぐそこにあった。

 空想はこのぐらいにして、俳諧・俳句のことである。私は上述した日本人の「ホーム・ポジション」は明らかに田舎/家庭モードの気分の中にあると思う。また俳諧・俳句の精神も同様であると思っている。日本人が日本列島で生活する、つまり「高温多湿がもたらす森林」に囲まれ、「天災」と同居して生きて行く以上、縄文時代この方祖先が過ごして来た知恵を継承して生きて行かねばならない。つまりネイテブ・モードで生きて行かねばならないと思う。伝統、あるいは文化とは本来そう云うものだと思うからだ。

 商業主義主導の都会/職場モード、つまりエイリアン・モードは、明治以降日本が一世紀の尊い血と汗で築き上げてきたものであり、今更否定すべきものではない。しかしその世界は即物的、かつ物質的な享楽を謳歌するだけの味気ない、いわばエイリアンの目指す世界で、いずれは破綻をきたす世界ではないだろうか。その点、ダブル・スタンダードを持つ日本人はラッキーである。何故ならモード・チェンジして安寧な生活ができるネイテブ世界を持っているからである。

 日本人が持つダブル・スタンダードの良い点は、短期/長期的視点から二つある。一つ目は、味気ないエイリアン・モードを抜け出し心の癒しを日々得ることを可能にする。二つ目はエイリアン・モードのもつ資源枯渇への暴走を阻止する唯一のカウンターカルチャーを内包している点である。

 日本人が、このままアーリア人化し市場原理主義の下をひたすら完走し、地球が破綻した時エイリアンの手を借りて異星を目指すのか、或いはネイテブ人としてアーリア人の暴走を軌道修正し、このまま地球に居残るのか。この判断は、今世紀日本人に求められている最大の問題である。これは日本民族だけの問題ではないのであるが、今やアーリア人の暴走を止めるのは難しい。彼らは再び地球を食い潰し宇宙船で異星を目指すのであるから・・・・。

 日本人が失いつつある「ホーム・ポジション」を取り戻すには、俳諧・俳句が最良のツールであると思う。同時に俳諧・俳句はダブルスタンダードで生きねばならない宿命にある日本人を救う。つまりネイテブにモード・チェンジする際の有効なツールでもあるのだ。

 日本人は、正岡子規が約一世紀前に行ったことの真逆のことを、つまり日本人の魂の故郷造りをやらねばならない状況にあるように思う。それは、失いつつある伝統や先人の知恵を、再度手元に手繰り寄せることであろう。
そのためには俳諧・俳句を日本人の文化統合システムとして再度機能させることが、非常に有効な手段であると思う。そして大袈裟な話かもしれないが、その方向は世界を救い地球資源を守る道でもあると信じている。

<おわり>

◇ 参考文献

小山修三『縄文時代』中公新書、1984年
小山修三『縄文学への道』日本放送出版協会、1996.6.20
小山修三・岡田康博共著『縄文時代の商人たち』洋泉社、2000.8.22
大塚初重・森 浩一・岡村道雄共著『古代日本はここまで見えてきた』同文書院、1999.5.22
森 浩一『ぼくの考古古代学』日本放送出版協会、2005.3.25
柳田国男『木綿以前の事』岩波書店、1979.2.16
柳田国男『不幸なる芸術』筑摩書房、昭和42年5月25日
武光 誠『「大和」から「出雲」へ』雄山閣出版、1999.3.20
山折哲雄『日本のこころ、日本人のこころ』日本放送出版協会、2004.11.25
ハルオ・シラネ『芭蕉の風景-文化の記憶』角川書店、平成13年5月31日
外山滋比古『俳句的』みすず書房、1998年9月21日
河合隼雄『昔話と日本人の心』岩波書店、1982年2月22日
大江修編『魂の民族学-谷川健一の思想』冨山房インターナショナル、2006年3月3日
梅原猛『葬られた王朝-古代出雲の謎を解く-』新潮社、平成二十四年十一月一日
梅原猛・上田正昭共著『「日本」という国-歴史と人間の再発見-』大和書房、2001年11月30日
谷川健一『青銅の神の足跡』小学館、1995年4月20日
平井照敏『「虚子」入門』永田書房、昭和63年5月5日
静岡教育サークル/シリウスのブログ 
 → http://homepage1.nifty.com/moritake/syakai/rekisi/rekisitouron1.htm

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