たたら その3 <菅谷山内>

 菅谷山内に到着すると先客がいた。青テントに覆われた高殿の横に桂の大樹があり、その下の小さな空き地にマイクロバスが一台駐車していた。すでに見学が終わったと見えて、年配の男性集団が三々五々マイクロバスに乗り込んでいた。その集団の責任者とおぼしき年配者と、先程電話に出た菅谷たたらの関係者と思しき四十代後半の男性が挨拶を交わしていた。マイクロバスの横に車を入れ、先客の引き上げを待った。

 山内と呼ばれている谷間には、たたら操業を行う高殿などの施設の他に、操業関係者の家族が住む住宅や穀物倉庫などの施設がある。云わば、たたら製鉄の操業設備と関係者の生活施設が一体となった一つの共同体で、地元では「さんない」と呼ばれている。これは吉田町だけの呼称ではなく中国地方に点在していた、たたら操業の共同体は全て「山内」と呼ばれていたようである。例えば、今は消滅してしまったが鳥取県日野郡日南町にあった新屋山内や、島根県仁多郡仁多町(現在は奥出雲町)にあった槇原山内などがそうである。

 かつて中世から近世にかけて主として中国山地に点在し日本の製鉄産業を支えて来たこれらの山内は、明治期に大規模製鉄が可能な西洋近代製鉄にその座を譲るが、明治17年の記録では当時未だ約600カ所の砂鉄採取場と34カ所のたたら施設があったと云われている。しかし往時の山内の面影を留めているのは現在では、ここ菅谷の山内だけになってしまったようである。特に一般に「たたら」と呼ばれる「たたら吹き製鉄施設」とそれを覆う大型木造家屋「高殿」を有する山内は、全国的に見ても菅谷山内だけとなり、昭和四十二年に国の重要有形民俗文化財に指定されている。

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           <菅谷山内遠景>
    昭和四二年に文化財保護法により、高殿、元小屋、米倉、
    拝殿・祠、立木(桂)の外に、山林、畑、宅地併せて約5、
    264平方メートルが国の重要有形民俗文化財に指定さ
    れている。(写真はブログ「ベレー帽通信 WEST」より)

   
 山内は一種の冶外法権アリアになっていたようで、近隣の農村とは屹然と区別された特別区域であったようだ。例えば江戸後期の文政十年(1827)の序文をもつ『坑場法律』(佐藤信淵著)には、「坑場の門より内をば別に一国と立て、一国成敗を行ふ」とある。『坑場法律』は砂鉄製鉄というよりも鉱山、つまり金・銀・銅を産する鉱山の坑場を対象に書かれているようであるが、砂鉄製鉄の集落もほぼそのような形態になっていたと思われる。これは後述する田部家当主の話でも明らかである。

 ついでに述べると、日本では明治に洋式製鉄法が入るまで鉄鉱石の存在が認知されていなかったらしい。信じられないことであるが、金・銀・銅については、その鉱石を産する鉱山(金山、銀山、銅山)から原料を採るが、鉄の場合は砂に含まれている鉄分を砂鉄として採取する方法しかないと考えていたようである。(石塚尊俊著『鑪と鍛冶』)。

 さて『坑場法律』の話しに戻るが、「一国」を立て「一国成敗」を行うということは、山内という小さな共同体を独立した一国と同等とみなし、今で言う行政と裁判を行っていたようだ。例えば有名な島根県の石見銀山には天正元年(1573)に幕府が定めた「山例五十三ケ条」に基づいた厳しい掟の「山内法」があり、それを書き留めたものが現存している。

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           <菅谷山内・長屋>
    石塚尊俊が昭和四十二年に現地踏査したときは二十二棟
    の長屋が残り、かつてのタタラ関係者および系累が百九
    人住んでいたとの報告がある。
    (石塚尊俊『鑪と鍛冶』より)

 「砂鉄のみち」にも「一国成敗」に触れた一節がある。司馬が取材のため菅谷山内を訪れるが、その前に所有者である吉田町(当時は吉田村)の鉄師(かねし)、田部(たなべ)家を訪ねる件(くだり)である。鉄師とは砂鉄製鉄事業ののオーナーに相当し、製鉄設備を保有、たたら師を雇い入れて鉄を生産し日本各地にこれを販売する経営者である。明治初期、中国地方には十指を超える鉄師がいたようである。

 司馬は、そこで当主の田部長右衛門と会談し長右衛門から、祖先が室町時代に紀州田辺から移住してきたこと、自分が二十三代目に当たること、たたら製鉄は採算面から長右衛門氏が幼少のころ、すでに操業停止状態であったことなどを聞いている。そのとき長右衛門氏は司馬にたたらの操業関係者を次のように話している。

 田部氏は「なにしろ擁している人数はおおぜいですし、タタラの技術者は渡り者が多く、中には兇状持ちもおりまして、なにしろそれを使いこなすのですから」殿サマや公卿サンのようにおっとりしていては勤まらない、というのである。(略)「タタラはアラシゴトでしたよ。だからぼくなんぞは、山賊の親玉のようなもんで」と、田部氏は笑わずに言った。(『砂鉄のみち』p259)

 司馬はこの話を聞き、「江戸時代にはこのあたり一円は田部家の成敗(裁判)によっていたのであろう」と記している。

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           <田部家の蔵群>
    吉田町の一画に、坂道に添って蔵が幾層も続く場所が
    ある。その光景は田部家の財力が窺えて壮観である。
    幕末に田部家から出火し、町内が全焼する大火事があ
    った。その火事を田部家の当主は、まるで昨日のこと
    のように、こまごまと司馬に話した。
    (「砂鉄のみち」より)

 私は司馬の「砂鉄のみち」を読み、古代から明治までの長い期間、日本経済を支えたのはあきらかに稲作農耕であったが、その稲作農耕を裏から支えたのは全国津々浦々に供給されていた「鉄」であったことを知った。その鉄を供給し続けていたのは、菅谷山内のような「たたら製鉄」だった。しかし、明治に近代製鉄が出現すると、「たたら製鉄」の技術集団は半世紀足らずで掻き消すように消えてしまった。幸運にも「たたら製鉄」の最後の殷賑の地だった菅谷山内は、たまたま山深い奥出雲という地で近代化の波が遅れたか、あるいは到達が遅かったことにより、忘れ去られたように往時の姿を留めて残ったのである。

 司馬が『街道をゆく』で「砂鉄のみち」を書こうとした大きな動機は、この掻き消すように消えた技術集団のことであることは間違いない。司馬の言う日本人の「奇妙」さを形作っている表の部分は農耕である。しかし、その半面の裏側はタタラ師に代表される「鉄」の集団ではなかったか。だからり稲作を裏から支えた鉄と同様、日本人の「奇妙」さの半分は、鉄を供給し続けた技術集団ではなかったか。司馬遼太郎は、そう考えて「砂鉄のみち」を書いたと思う。司馬は、この表には出ない裏の技術集団が、日本および日本人に与えた影響の大きさを思い、その痕跡のようなものを「砂鉄のみち」で見出だしたかったのである。

 ここからは私個人の考えであるが、さらに云えば、日本人が、かつて、いや現在でも生産・製造技術で世界をリードし、世界に冠たる製造業立国になりえた理由を考えると、その原点に「たたら師」の影がチラついているように思う。どうも司馬は日本の技術立国の源を遡れば「たたら師」に突き当り、それに連なる村の鍛冶屋、刀師、研師などが、日本独特の「職人」および「職人気質」を形作ったと考えていた節がある。
 さらに想像を飛躍させれば、その「たたら師」の末裔が、明治期に大工の倅として生まれた豊田佐吉であり、昭和期に鍛冶屋の倅として生まれた本田宗一郎なのだと・・・・・。

<つづく>

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この記事へのコメント

2015年01月05日 23:49
念願の菅谷山内に行けてよかったですね。写真は、出典を明記さえしていただければ、ご自由にお使いください。山陰には、たたらの遺構があちこちにありますが、菅谷ほど完全なものは他にありません。山陰、特に出雲は古代史に思いを馳せるものが多いです。小生のブログでも、他にも結構取り上げていますのでまたご覧ください。
無迅
2015年01月06日 11:31
Kumaさんコメント有難うございます。
今回、kumaさんの写真一枚拝借いたしました。
御礼申し上げます。
この旅で出雲がいっぺんに好きになりました。
ブログ、拝見しています。
こんど『かぐや姫と王権神話』読んでみたいと思います。

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