『土佐源氏』考 〈その五〉

 さて、二つ目の宮本と柳田の関係であるが、これは佐野氏の『旅する巨人』を読めば、ある程度把握することが出来る。佐野氏は丁寧な調査で、それまであまり知られていない二人の関係を明らかにしている。しかし、それは全体として私が予想していたものを大幅に超えるものではなかった。宮本には師が二人いたと言われている。渋沢敬三と柳田国男である。ところが宮本はある時期から渋沢を父のように慕い師事することになる。二人は生来気が合ったのだと思う。

 渋沢は昭和三十年代に「わが食客は日本一」という文を文藝春秋に寄稿し宮本を褒めあげている。これを知った宮本は自著『民俗学の旅』でそのことに触れ「この日本一は日本一長い食客であったと解していただきたい」と幾分照れながら述べている。事実、宮本は渋沢のもとで二十三年間も寄宿生活を送っており、昭和三十年代に長女を東京に呼び一つ家で生活をするまで陰に陽に渋沢の庇護を受けている。

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         < 渋沢敬三(1896~1963)>
    17歳の年に実業家である祖父・渋沢栄一の継嗣となる。
    第一銀行に勤務した後、第二次世界大戦終了前後に
    日本銀行総裁、大蔵大臣をつとめ、転換期の日本経済
    において重要な役割を果たす。その一方で「アチック・
    ミューゼアム」を立ち上げるなど、文化的・学問的な
    活動にも注力した。号は「祭魚洞(さいぎょどう)」。
    (ネット、「渋沢敬三アーカイブ」より)
    宮本常一の著書によると、戦時中渋沢は日本の敗戦と
    戦後の状況をかなり正確に予測していたことが分かる。
    軍政府に比して経済界の情報分析力の凄さが窺われる。
    財界人と文化人の二つの顔をもつ渋沢は戦後の日本文
    化の行く末に大きな危機感を抱き、常に宮本を身近に
    置き頼りにしていた。

 渋沢と柳田の性格は全く対照的であったようである。柳田の性格を知る上で面白いエピソードがある。著書名は忘れてしまったが、次のような話である。

 柳田家を頻繁に出入りしていた民族学者Aが、結核を患い療養していた。本復し柳田の自宅に挨拶に伺うと、柳田はAを見るなり、あからさまに嫌悪する表情となり「家には幼い孫が同居している、結核が感染するから顔を出さないでくれ」と挨拶もそこそこに追い返されたという。Aは憤激しそれ以降柳田との交際を絶った。実はその時、宮本はAに同行していた。宮本はそのときAに痛く同情し掛ける言葉もなかったという。自らも結核を患った過去をもつ宮本は、それを理由にそれ以降、急激に柳田家から遠ざかることになる。実は柳田は直言居士の性癖があるようで、加藤守男の『わが師 折口信夫』を読むと、折口信夫もその弊を度々蒙っていたことが分かる。

 これに対し日本銀行総裁、大蔵大臣を歴任した渋沢は、一介の食客である宮本に対して昭和十五年の出会いから「さん」付けで呼び、同学の士としての礼を崩さなかったという。ただ宮本が昭和二十八年に結核が再発すると、渋沢は宮本の生涯の庇護者になることを覚悟した。それ以降、対外的には宮本を「箱入り息子」と言い、宮本へは「君」になったという。加えて渋沢は宮本に自分流の処世訓、特に人の見方やその社会の特徴を、こと細やかに教えた。例えば、尊敬する人でも偶像崇拝はせず一歩離れてその人を見ること、主流、主役になると細かいことを見落とすこと、学者社会は派閥あるので注意するようにと、まるで親が子を諭すようであったという。

 渋沢、柳田とも経世済民の士であったが、個々の行動は個性豊かで対照的でさえある。これは二人の生い立ちの差からくるものと思われる。柳田は田舎の貧しい「日本一小さい家」に生まれ、帝大から高級官僚というエリートコースを歩んだ。一方渋沢は、渋沢栄一という稀代の実業家を祖父にもち、祖父から幼くして才能を認められ、若くして実業界の荒波に身を投じた。

 昭和二十四年初夏、雑誌『改造』は柳田国男と家永三郎の対談を企画した。家永はこの対談を後日「話題の進行は思わざるに私をして不用意にもこの鴻儒と思想史の方法について論争めいた意見の交換をおこなうのやむなきにいたらしめた」と述懐する事件が起こった。歴史学それも思想史を専攻する家永の目には、当時「日本民俗学」として第一歩を歩み始めたばかりの柳田史学は確とした方法論もなく、学問の体を成していないと映った。つまり柳田個人の天才芸(学問的な呼称は「重出立証法」というらしい)で成り立っていた。これを見た家永は学問ではなく、言わば芸術の領域にあるという痛烈な批判を柳田に浴びせたのである。

 家永はこの批判を後日『柳田史学論』として発表する。それによれば家永は序文で柳田史学は従来の文献中心主義の史学を補充する可能性があると一応柳田を持ち上げるが、柳田史学のもつ「限界性」と「非実年代性」について辛辣な批判を展開している。「限界性」とは、民俗資料といえども現代に情報を求めるに変わりはない、そういうもので過去を見ると言うのは根本的に矛盾しているという批判である。また「非実年代性」とは、史学の対象は歴史的発展にあり、実年代的展開が出来ないものは史学とは呼ばないという批判である。

 この家永批判は、詰まるところ西洋史観に立った視点で書かれたものであり、柳田の学問そのものが西洋史観を否定する対極の学問である点を全く考慮しないものであった。現在では、この批判は適切ではないという意見が大勢であるが、当時の日本民俗学は積年の苦労が実を結び歩み始めたばかりで、家永の批判は柳田に大きな打撃を与えた。だが、家永批判は西洋史学の物差しによる批判で、物差しを変えることなく対極にある日本民俗学を料理しきれるものではない。つまり家永批判は当たらないと日本民俗学を擁護する知識人も多かった。例えば梅棹忠夫は、日本民俗学の可能性を高く評価し、その可能性として次の三点を挙げている。

  ・日本文化のもつ、さまざまな特質を正当に理解するための
   科学的な拠り所を提供する。
  ・思想が日本の国土の上で空転することをさけるための有効
   な接地点を提供する。
  ・まったく新しい思想が生まれ出る基盤になる可能性がある。
   それによって日本と言う土地は、世界の文明にユニークな
   寄与をなし得るかもしれない。

 そして梅棹は、その実現のために、
  ・失われつつあるものの、ぼう大で精密な記録の仕事。
  ・若い世代の人たちの間から、大胆なセオリーゼーション。

の二つが必要であると説いている。(『日本読書新聞』1957年4月22日)

<つづく>

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