たたら その6 <脇みち>

 鉄(道具)を潤沢に持てた日本と、それを持てなかった朝鮮半島の国民性にその違いを見るという司馬の見方は慧眼と思う。しかし司馬は、その慧眼を著書の中で自分の「妄想」として述べているのだ。例えば次のような言い方である。

 要するに、地域が乾燥しているかあるいは湿潤であるかによって、朝鮮地域にすむアジア人と、一方日本地域に住むアジア人とが、歴史の長い時間での様相を異にし、さらに民俗性をも異にしてしまったというところへ私の妄想はつづく。(『砂鉄のみち』の「乾燥と湿潤」の章)

 以下、ここで本論(砂鉄製鉄)を外れて、司馬遼太郎自身について少し触れてみたい。理由は司馬の妄想に触れる前に司馬がライフワークとした『街道をゆく』で、何を訴え、何を書きたかったのかを少しでも知るためである。

 司馬が自分の論を「妄想」と強調する表面的な理由は、学術的な裏付けが取れていないことにあるのであろう。しかし私には、その裏に潜む司馬の一つの悲しみを感じる。それを端的に言えば、現代学問(特に史学)への失望ではないかと思う。つまり司馬が自説を「妄想」と呼ぶ裏には、司馬独特のアイロニーが込められていると思うのである。一例を上げれば、「日本に鉄が入ったのはいつで、その鉄が日本の社会にどんな影響を与えたのか」という単純なテーマに、現代史学は全く答え切れていないのである。たぶん史学者の頭には、相変わらず稲作しかないのであろう。

 司馬にしてみれば日本人を考える上で、これほど大事なことが何故研究の視野に入らないのかという不満がある。誰が天下を取ったか、誰が謀反を起こしたのかも良いが、学問として鉄が、あるいは銅が日本人にどのような影響を与え、それによって庶民生活がどう変わり、その結果社会がどう変わったのか、この視点こそが日本人を知る上で決定的に重要ではないか。そのような学問に対する積年の思いがある。その思いが、自らを古代製鉄の調査に駆り立て、その結果として前述したような独自の「砂鉄文化論」を展開するようになったのである。

 このような背景があるため司馬は自説の砂鉄文化論を開陳する際、自説を敢えて「妄想」と呼んだと見ている。そのことを物語る文章が牧祥三の『砂鉄のみち』の解説にある。ある雑誌社が主催した名のある史学者との座談会で、司馬は「私は砂鉄に熱中しておりまして」と前置きをした上で次のように述べている。

 (十世紀いらい日本には)鉄器の農機具がふんだんにあって、そして灌漑工事が容易にできる好条件をもっているわけです。土地についての競争心のひじょうに盛んな武士というものを成立させる。そこでいわゆるエコノミック・アニマルといいますか、競争心の盛んな日本人が出来あがるわけです(『街道をゆく7』解説より)

 日本を代表する史学者を前に独自の研究視点を敢えて強調する司馬の姿に、私は民俗学者司馬遼太郎を見る思いがする。つまり司馬の発想や着目する視線に民俗学者と同質なものを感じるのである。司馬は民俗学者である宮本常一を終生敬愛してやまなかったようである。宮本の著書は広く目を通し、宮本が亡くなった時わざわざ宮本の生家のある山口県大島の菩提寺まで焼香に出向いている。さらにある雑誌社が実施した愛読書アンケートに、司馬は愛読書三冊の一冊に宮本の『忘れられた日本人』を上げている。
 また宮本常一の研究家として名高い佐野眞一氏は、司馬のライフワークとなった『街道をゆく』の執筆動機そのものが、宮本常一の一連の著作に刺激された結果であることを明らかにしている。

 確かにそう言われてみれば『街道をゆく』シリーズには、宮本の話に触れる場面が幾つかある。早い話が『砂鉄のみち』が収載されている第七巻の『明石海峡と淡路みち』では、「宮本常一氏の説」という章があり、そこで釣りに用いるテグスに関する宮本の話を紹介している。ここまで状況証拠が揃うと司馬の視線の先には常に宮本がいたのかとも思う。いや、いたと断言しても良いのかも知れない。司馬はひそかに、宮本のやり残したものを自分流にやり遂げて後世に遺したい、そう思っていたかも知れない。
 そこで唐突であるが、私はその事を知る上で牧祥三を手掛かりにしたいと考えている。

 以下、司馬遼太郎と牧祥三の関係について考えてみたい。牧祥三は『街道をゆく』の解説を書いている。ただし私が持っている文庫本では、第一巻から九巻までである。面白いことに『街道をゆく』の解説は第一巻から九巻まで牧が書いているが、その後どういう訳か第十巻から突然解説が無くなっている。したがって長編『街道をゆく』の解説は牧一人が書いたことになる。
 
 二人の出会いなどについては詳細に把握していないが、二人は同窓生(大阪外語大)で、牧は司馬より十六歳年長である。牧は同学の第四代学長を務めていて、司馬にとっては大先輩に当たる存在である。交友期間も長いと聞くので、生きて行く上での価値観が共有できる、所謂「気の合う」間柄であったと思われる。第一巻から九巻までの解説を読むと、牧が司馬の良き理解者であることが行間に滲み出ているように思う。司馬が発見した事実や考察を正確に解説し、時には適切な補足さえしている。驚くことに『砂鉄のみち』では、読者の理解を助けるために、司馬が触れなかった砂鉄に関する基礎的な知識を自ら学習し解説で補足しているのである。その姿は、まるで父親のごとき眼差しである。

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        <司馬遼太郎『歴史を紀行する』>
     『街道をゆく』シリーズの予告編とも言われている。
     司馬はこの中で「風土を考えることなしに歴史も現
     在も理解しがたいばあいがしばしばある」と述べ、
     自身の史観を深める一書になった。
    

 父親の眼差と書いたが、牧はそのことを物語る面白いエピソードをさりげなく解説の中で書いている。司馬が大阪外語大を受験した経緯についてである。司馬は旧制中学時代まで数学が死ぬほど嫌いだった。このため大学を受験するに当たり試験科目に数学が無い大学を物色、それが唯一大阪外語大学であったことを牧はユーモラスに明かしている。司馬が触れたくない話を司馬の著書の解説で、さりげなく曝すというところに二人の関係の深さ感じさせる。
 ここで司馬の民俗学に近い史観に話を戻すと、牧は司馬の史観を、それこそ父親的な眼差しで次のように明快に読者に伝えている。

 だが司馬氏における歴史を観る眼は、たとえそれがいかに豊かな知識によって満たされていても、本質的には小説作家の眼であって、冷静、客観的な歴史学者の認識の目ではない。だからアメリカの日本史研究者がとる、価値を判定する基準を近代化がどれだけ進められたかという進歩の大小、時間的遅速にだけに置いて、言うならばまったく観察者の感情を除去した数量的価値だけをあつかう方法は、およそこの著者の文学精神とはちがった次元のものであった。(『街道をゆく1』の解説より)

 牧が言うアメリカの日本史研究者がとる史観こそ、近代史観そのものであろう。その近代史観を日本はそのまま明治以降とり続けている。司馬には、そのことが分かっているから史学者の前や『街道をゆく』の中で自分の説を妄想と言わざるを得ないのである。日本のアカデミズムに籍を置く牧には、司馬のそこのところが痛いほど分るのである。しかし司馬のライフワークである『街道をゆく』のスタートにあたり、世の史学者を敵に回すことは避けなければならない。記念すべき第一巻で、愛すべき舎弟分のために書いておかなければならないことは、まさに上記の一節であった訳である。そのように考えれば、『街道をゆく』シリーズが軌道に乗った第九巻で牧が解説を辞めた理由は案外このようなとこにあるかも知れない(なお、『街道をゆく』の新装版では九巻以降も牧の解説が復活している)。

 しかし、後日『街道をゆく』がベストセラーになったとき、司馬の予期せぬことが巷に起こった。それは「司馬史観」なる言葉の流行である。ところが司馬は自分の史観が、そう呼ばれることを喜ばなかった。私はその理由を次のように考えている。つまり「司馬史観」という言葉が、司馬が不満だった近代史学に対する亜流史観として矮小化されることを危惧したからではないかと思う。敬愛する宮本の史観を継いだ自分の「妄想」こそ、日本人のマジョリティーな史観になるべきである、そのような信念と矜持が司馬にあったと思うからである。

 さらにわき道に逸れてみたい。司馬の文献調査についてである。先に史学者を前に「私は砂鉄に熱中しておりまして」と話す件を紹介したが、その「熱中」という言葉の中に司馬の文献調査への自信が表れているように思う。司馬は大阪と東京に懇意な古書店を専門別に幾つかもっていて著作中、文献が必要になるとその文献のキーワードを電話またはFAXで古書店に連絡し、文献の入手を依頼したようである。古書店では司馬の依頼内容を見て、自店・他店を問わず同業者の情報網を駆使し該当文献を探し出した上、数時間後には司馬の自宅まで届けたそうである。

 東京神保町のある古書店では、店主自らが新幹線で文献を運んでいたと述懐している。しかも一回当たりの文献量は百冊を超えていたそうである。現在のインターネットのAmazon検索・発注システムに仕掛けが似ているが、司馬の古書店活用システムは、古書店が持つ豊かな専門知識と古書店間の在庫管理情報網とで、現在のインターネットのシステムを遥かに凌ぐものであった。古書店は司馬の強力な著作支援システムになっていたようである。

<つづく>

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