上田正昭と白鵬 <その3>

 近年、相撲界では日本人の横綱が誕生しない、また日本人力士が優勝しないことを嘆く声がある。私は、この嘆きを分らないこともないが、もっと大切なことがあると思っている。それは日本の相撲道精神を外国人力士に、しっかりと学ばせ理解させることである。相撲道という革袋が破れずに泰然とあれば、その中に洋酒を入れようがウオッカを入れようが日本人の酒になる。その為には過日の白鵬-日馬富士戦のような相撲道に反する行為は厳しく糾弾しなければならない。つまり外国人力士といえども相撲界に籍を置く以上、日本人と価値観を同じにしなければならないと思うからである。もし、これに反する力士が出れば大衆が異を唱え、横綱審議委員会は本人に勧告しなければならないと思う。

 何故なら、そのことが日本の文化を守る姿勢だと思うからだ。モンゴル力士には申し訳ないが日本の大相撲はモンゴル相撲とは違う。たかが相撲と思ってはいけない、相撲道は日本人の精神であり日本の文化なのだ。一門を率いる親方は、これを厳しく指導しなければならない。今回、大阪の相撲ファンは、その点で偉かったと思う。大相撲における革袋つまり「文化の担い手」の役割を見事に果たしたと思っている。

 私は白鵬が嫌いではない。むしろ品性に欠けた言動で問題になった朝青龍問題や力士が関係した八百長事件が発覚した際、単独横綱として土俵を守り大相撲の危機を救った功労者であり大変評価している。ただ最近になり土俵上の所作や土俵外の言動に、少し傲慢とも思えるものが感じられるようになっていた。その矢先に今回の事件である。地位も記録も頂点を極め、目標を見失っていたかもしれない。もしそうであれば潔く引退して欲しい。引き際の美学も相撲道、延いては日本文化の特質だと思うからだ。

 話を帰化人と渡来人の話に移すと、双方は移住する国の文化に対する対応が決定的に異なると思う。帰化人の場合は、現代なら国籍を取得することで手続き上は帰化できる。しかし帰化するということは、その国の体制に組み入れられることを意味し、一市民としてその国の文化を尊重し共有しなければならない義務が生じる。これに対し古代日本へ渡来した民はそうではなかった。元の国の文化をもって移住してきた集団の民であった。

 渡来人の命名者は先に述べた歴史家上田正昭である。上田は歴史家として、この古代日本へ数度にわたって移住して来た集団の民を研究してきた。その際、移住者が日本にもたらした大陸文化や先進技術を大きく評価し、彼等を単に帰化人と呼ぶのは相応しくないと考えた。しかし当時、これらの民を表す適切な言葉が無かった。このため新たに「渡来人」なる言葉を造語し、これを提唱した。しかしこれがもとになり大和単一民族説を信奉する右翼者から、極左と呼ばれることになる。上田がそのように呼ばれる背景は二つあった。一つは戦前から終戦直後まで大和単一民族説が主力であったこと、二つ目は渡来当時(4世紀~7世紀)の状況が近年まで明らかになっていなかったことである。

画像
            <神武東征(東遷)>
      初代天皇カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が
      日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位する
      までを記した説話。絵は月岡芳年「大日本名将
      鑑」より。(以上ウィキペディアより転載)
      記紀から真実の歴史を読み説くことは困難であ
      ろう。それよりも大陸の先進技術と人材を有効
      に摂取し如何に日本独自の文化を創り守ったか
      が重要と思う。

 以下は私見であるが、私の日本人観を簡単且つ自由に述べさせてもらうと次のようになる。日本の有史時代は、せいぜい千五百年前に遡れるだけであるが、その先にある先史時代は少なく見積もっても一万年はある。そして、その大部分が縄文と呼ばれる時代になる。縄文人の人口は少なかったが、日本列島全域におよんでいたらしい。北は北海道から南は沖縄まで縄文人が住んでいた痕跡が発見されている。

 大陸からの集団移住、つまり渡来人の移住は4世紀頃から始まったと言われている。日本列島に縄文人が住み着いてからの歴史で見れば、ごく最近の出来事と言えよう。風土的に言えば、季節感は豊かだが天災の多い日本列島には、出雲族の移住や神武東征以前に、すでに一万年も生活していた縄文人がいた事実がある。つまり、ものの本には悠久の中国三千年、あるいは四千年のイジプト歴史などと書かれているが、我が日本も悠久の一万年と呼べる歴史があることになる。 

 私は大和民族が畿内に進出する以前に、朝鮮半島から山陰地方に渡来していた出雲族の影響が現在の近畿圏まで及んでいたと考えている。つまり当時、倭(和)の国の中心地は九州で近畿圏にはおよんでいなかったと見ている。神武東征により徐々に倭の国の勢力が東進することで畿内において出雲族と衝突、数度の交戦を経て所謂「国譲り」が成ったと考えている。その後、日本列島は大和民族を中心に統合が進み一国の体を成すことになるのだが、この間つまり記紀が著わす時代は、まことに大らか且つ神秘的で謎の部分が多い。

 例えば魏志倭人伝に記された倭の国とヤマト民族の関係が不明瞭であり、物部一族の実態も気になる。九州から東征したと言われているヤマトは多分に倭と呼ばれ、かなり気性の激しい一族と思われるが、九州地方における東征以前の成立過程が不明である。たぶん気性の激しさにおいて南方系の移住者と縄文人との混血で成立した一族と思われる。一方、ヤマト東征が始まる以前の中国地方や畿内においても、先住の縄文人と朝鮮半島からの渡来人との混血融和は、かなり進んでいたのではないかと思われる。出雲族と呼ばれる一族もその部族の一つではないかと思っている。

 不思議なのは物部と呼ばれ、畿内や中部地方の各地に痕跡を残す一族の存在である。ヤマト東征の折には陰に陽に東征を支援していた形跡があるし、大和朝廷確立寸前の揺籃期には主要な一族としてヤマト内で重きを成していた。その後蘇我一族との確執に敗れるが、中部地方には隠然たる勢力を保っていたようで、その後の大和朝廷の中部、関東進出にも協力していた痕跡を残している。私はこの一族が気になって仕方がない。たぶん渡来系の一部族であろう。あるいは出雲族の一部族かも知れない。私が密かに思っているのは出雲族より遥か先に大陸から渡来していた一部族ではないかと思っている。この部族が先住していた縄文人(原日本人)と上手に折り合いながら広域に散ったと考えている。ついでに想像を逞しくすると、先住していた縄文人の持つ母系文化に時間を掛けて吸収された部族が物部ではないかとも考えている。

 現在、東南アジア系の労働就業者の移民や中東系の難民受け入れについて、一部の文化人や経済人により経済面や人道面で語られている。私はこの議論に重要な視点が抜けていると感じている。上述した歴史に習う視点である。次回は日本文化の特徴「ダブルスタンダード」と移民について考えてみたい。
<つづく>

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