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zoom RSS Sさんのこと <その12、完結>

<<   作成日時 : 2017/01/05 13:29   >>

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 <山椒魚蛇足4>
 井伏鱒二が自著『山椒魚』を、どのように見ていたかについては諸説がある。ある現役の作家は盗作だと断言して憚らない。私はそのあたりはよく分からない。ただ井伏が最終章の会話部分を何故削除したのかはとても気になる。気になることのもう一つは、その削除が最晩年であったことだ。実はそのことを数日考えたことがある。その結果、私がたどり着いた結論は極めて俳句的であった。先ず文章全体の印象はかなり哲学的、あるいは寓意的な内容にも拘らず削除部分は如何にも恣意的という感じがすることである。

 散文なので起承転結は必要と思うが、こと短編に限れば、それに拘る必要はないとも思う。むしろ俳句でいう「切れ」を効かして、読者に余韻を残すことが重要かと思う。その点生意気なことを言うことになるが、井伏が削除した部分は如何にも結論誘導的、かつオチが安易過ぎると思える。ある意味で「納め」の作為が見え過ぎるように思う。中学校(高校かもしれない)の読書感の教材としては良いかもしれないが、折角の品格のようなものが損なわれてしまうように思う。一言で言えば「理屈が過ぎ」てしまうのである。(本章は蛇足なので、これ以上詳説しないが、興味のある方は是非一読を勧めしたい)

 「理屈が過ぎる」で思い出すのは、俳人森澄雄である。森は晩年、極端に理屈を嫌った俳人であった。手元に私が俳句初学の頃、新聞紙上に載った森の添削記事を切り取ったファイルがある。これを見ると厳しい理屈批判で溢れている。時には芭蕉の言葉「予が方寸の上に分別なし」を引き、呵責なき添削をしている。マーカーを引いた文章部分を拾い出してみても、「常識的な理屈を言って自ら納得し、情景を説明的に一句にしている」「理屈や条件を付けず、そのままの実景が今なのです」「小さな人間の分別を入れ、一句に都合のいい形容や答えを出している」など枚挙に暇がない。

 森澄雄が脳溢血で倒れたのは晩年の七十六歳である。以後最晩年にかけて、富みに理屈嫌いが高じているように見える。その傾向は、森の代表句(下記の前二句)と最晩年句を比べると鮮明である。句柄が大きく変わっている。

      除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり
      白をもて一つ年とる浮鷗

      口かるくあけてをりたる雛かな

 森は読売新聞の俳壇選者を長く務めたが、晩年の選評は「理屈嫌い」が徹底している。一字一句、特に「てにをは」の使い方に、その思いが透徹している。一例をあげると次のようになる。

 亡き人の誰かれ泛(うか)び盆の月→亡き人の誰かれ泛(うか)ぶ盆の月
 太鼓打ち代替りして村祭り→太鼓打ち代替りせし村祭り

つまり「泛び」「して」に作者の小さな理屈が潜んでいるという選評である。

画像
           三木茂夫著『胎児の世界』
      私たちは、かつて胎児であった。十月十日のあい
      だ羊水にどっぷり漬かり、子宮壁に響く母の血潮
      のざわめき、心臓の鼓動のなかで、劇的な変身を
      とげたが、この変身劇は、太古の海に誕生した生
      命の進化の悠久の流れを再演する。それは劫初
      以来の生命記憶の再現といえるものであろう。
      (中公新書の紹介文より)
      我々は胎内進化の過程で一度山椒魚(両生類)に
      なった後で人間(哺乳類)になっている。つまり、
      母親の胎内で一度山椒魚を経て、この世に生を受
      けている、と三木は言う。


 『山椒魚』に話を戻すと、晩年の井伏にも多分に森澄雄と同じ傾向が現れているように思う。つまり在り来たりの理屈が小賢しく思えるという心情である。最晩年の井伏にとって自分の作品ながら『山椒魚』の終章は実に小賢しく映ったのではないだろうか。特に幽谷の山椒魚を素材にしている手前、理屈を排し、ある種の死生観が漂うような作品上の「切れ」が必要だったのではないだろうか。

 さて蛇足が長文になっては洒落にならない。私の山椒魚に対する思いを述べたい。私の山椒魚とは「日本人が晩節を送る上での死生観をシンボライズしたもの」というのが結論である。換言すれば「理屈を排し、在るがまま受け入れる」という生き方になる。
 そして、その世界は俳句の世界に極めて近似するものではないかと思っている。

<了>

参考文献
・Sさん『山椒魚の謎』環礁俳句会、平成9年10月13日
・Sさん『山椒魚の故郷』
     (第4回岡山・吉備の国文学賞随筆部門入賞作品集)
     岡山県郷土文化財団、平成10年3月30日
・カレル・チャペック『山椒魚戦争』小学館、1994年11月20日
     翻訳者=小林恭二、大森望
・外山滋比古『「いつ死んでもいい」老い方』講談社、2011年11月3日
・島薗進『日本人の死生観を読む−明治武士道から「おくりびと」へ』
     朝日新聞出版、2012年2月25日
・井伏鱒二『山椒魚』新潮文庫、1948年1月15日
・三木茂夫『胎児の世界―人類の生命記憶』中公新書、
     1983年5月23日
・立花隆『死はこわくない』文芸春秋、2015年12月10日

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