拙守庵閑話

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zoom RSS 能登真脇のこと <その7>

<<   作成日時 : 2017/08/27 18:32   >>

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 折口学を頼りに本論をスタートさせたが『古代研究』を読み進めると民俗学の実証法が学問的に納得いくものなのか多少不安になってきた。これは私が今まで民俗学に抱き続けて来た不安でもある。つまり『古代研究』の奔放な発想が気になって来たのだ。このため『古代研究』をいったん横に置き、鳥越氏の『柳田民俗学のフィロソフィー』を読み進めている。その上で本論を進めた方が、ここまで読まれた方への礼儀にも叶うことと思うからだ。

 読み進めると民俗学の方法論には国学者の契沖や本居宣長が唱えた歌学の流れがあることが分かった。つまり西洋学問の科学に当たるものが民俗学では歌学であるということになる。この相違は西洋と日本の学問対象の差によるものと直感的には想像がつく。しかし果たして歌学が科学に並び立つ論理性と実証性を有するものかは疑問が残る。このことを詳しく解明しておく必要がありそうだ。そうしなければ西洋学問に浸りきった私は、日本民俗学が人間の心を扱う世界的に稀な学問であることや、昨今「日本学」が世界で注目される理由も永久に理解できないであろう。

 幸いに鳥越氏はこの命題を大きな概念から細部へとまるで私を諭すように導いてくれた。まず大きな概念では@現代社会における科学観の世界的な変容、A民俗学におけるテーマの特殊性という2つの視点から説き起こして呉れている。

 まず@については、一口で言えば現在の科学万能風潮への疑問である。鳥越氏は、現在の経済学、社会学、人類学などの学問は所詮特定民族(この場合は西ヨーロッパ)の社会思想と論理技術であるに過ぎず、他の民族にとっては各民族の固有性(本質的属性)にこそ本質があるという考えである。その例としてスペインの民族医療体系や20世紀の哲学者ファイヤアーベントの科学観を挙げている。ここではその詳細は割愛するが、民族文化には民族固有の必然性があり時間をかけ変容を遂げて来た。そのことへの再評価である。鳥越氏はこの背景には20世紀から始まった近代化論の変容をあげ、西洋学問を基軸とした単系発展論に拘らず民族固有の発展があってもよいと言う考え方があってよいのではないかと次のように述べている。

 「近代化論」という研究分野で説明すると、イギリスなどの特定の国の近代化を典型とおき、他の国々の発展をその偏差やいびつなものとみる単系発展論が影をひそめ、それぞれの国の近代化の固有性に注目する多系的発展論になった。(略)このような立場に立てば、なにもいわゆる西ヨーロッパ起源の「科学」のいう“実証的”という証明方法−近代科学は実証的であることが主要な生命線である−に、金科玉条としてすりよることのない“科学”もあってよいのではないか、(略)ある種の必要性にもとづいたならば、西ヨーロッパ起源の「科学」技法よりも有効な手法もあるように思われる。(『柳田民俗学のフィロソフィー』「第5章心意論」より)

 次にAの民俗学テーマの特殊性問題である。鳥越氏は先ず民俗学の究極的な理解対象を明らかにする。それは柳田の言葉を借りれば「心意伝承」にあるという。しかしこの「心意」の理解が難しい。鳥越氏はこの命題を民俗学者宮田登の著作から人柱に関する3人の学者の論争を引用し分かり易く説明している。つまり柳田を除く2人の学者は人柱の有無を問題にした。しかし柳田の関心は人柱の有無とは別に、もしあった場合「人柱になった母子が人神となる理由、人柱を自ら提案し犠牲になった心意が存する理由の二点」にあったことを紹介している。

 この引用例から柳田民俗学の関心は「人柱の有無を論ずる視点よりも、この伝説を実在するものと信じた日本人の心情」であることを述べ、柳田民俗学の最終の目的は心意、心情、あるいは心意伝承と呼ぶ人間の心にあることを結論づけている。柳田は自ら起こした民俗学を一時期、新しい国学だと述べたことがある。同様のことを折口信夫も述べている。碩学で知られた柳田のことである、当然西洋学問の論理体系を熟知した上で民俗学の方法論を国学のそれに拠ったと思われる。そのことは鳥越氏が解明する論考過程で十分納得できる。つまり柳田民俗学のテーマは西洋学問では捌き切れない「心」という特殊なテーマであったと言える。
 
画像
        <本居宣長(1728〜1801>
    国学の創始者に当たる契沖の正当な流れをくむ後継者
    であり国学の完成者でもある。平田篤胤に至りイデオ
    ロギー化するが日本史上何回も繰返された復古イネル
    ギーの本質を知る上で国学が再評価されるべきと思う。
    因みに  松尾芭蕉(1644〜1694)
         契沖  (1647〜1701)
         荻生徂徠(1666〜1728)
         賀茂真淵(1697〜1769)

 鳥越氏は社会学者有賀喜左衛門や政治学者中村哲の著書と論考から柳田民俗学の底流を流れるものとして契沖や本居宣長の歌論の存在をあげている。特に中村氏の著作からは宣長に影響を与えた契沖の存在を知る。その結果柳田の採用した帰納法は契沖、宣長の流れを汲むものであることを確信する。同時に対象に入ってゆく心の透明性の確立法や、蒐集した故事、伝承に潜在する宗教色や外来思想を除去する方法をも契沖、宣長より得ていることを発見する。驚くべきことはこのような方法論を江戸後期の国学が創案していたことであろう。

 鳥越氏は柳田が西洋学問の実証方法を採らず近世国学の方法論を採った理由を以下のように見ている。すなわち西洋帰納主義は対象が「物」であったため知的分析の立場で対象を見るが、柳田は「心」という立場から対象を見たかった。つまり心を通して見る場合は対象を知と感性に分けて見ることはできない。分けないからと言ってその発想が劣っているとは言えない。「心」という対象そのものが知と感性の分離を嫌うものと認識していたからである。つまり世界観の相違とも言えよう。鳥越氏はその世界観を以下のように述べる。

 すなわち、松飾り、盆行事、成人式、あの世、雨乞いなどすべて、柳田が対象とする民族事業の解釈には、常に対象と心を一つにしてそこから解釈するという方法がとられているのである。(『柳田民俗学のフィロソフィー』「第5章心意論」より)

 問題は鳥越氏のいう「対象と心を一つにして」の心である。つまり外来の思想や宗教などに左右されない心が求められることである。この心は前述した折口の言葉「古代を考へるものが、ある年数を経た後世の合理観を多量に交へた記録にたよる程、却つてあぶないものはない」とも符合する。この心のあり様を鳥越氏は小林秀雄の著作で発見する。有名な「もののあはれ」の一節である。少し長いが重要なので全文を引用する。

 よろづの事にふれて、おのづから心が感(うご)くといふ、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるといふ事が、先ず宣長には固く信じられてゐる。心というものの有りようは、人々が『わが心』と気楽に考へてゐる心より深いのであり、それが、事にふれて感(うご)く、事に直接に、親密に感(うご)く、その充実した、生きた情(こころ)の働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損なわず保持して行く事が難しいといふところにある。難しいが出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考へてゐた『物のあはれを知る』という『道』なのである。(小林秀雄『本居宣長』新潮社、1977)

 つまり鳥越氏の「対象と心を一つにして」の心とは宣長の「もののあわれ」の心なのである。これを理解するには国学の基軸となっている歌論を知らねばならない。歌論は古今集の序から始まり中世に花開き、近世に至って論理的展開を遂げる。以下は鳥越氏の著作と私の調査によった解釈である。近世国学が一部の研究者に革命的と称賛されるのは契沖が行った中世国学に対する批判である。簡単に言えば俊成に始まる中世歌論(歌学)への批判である。一例を上げると宣長の『玉勝間』にある「業平の朝臣のいまはの言の葉」の章にある在原業平の辞世の一首に対する契沖の評が端的にこれを表している。

      つひにゆく道とはかねて聞きしかど
      きのふけふとは思はざりしを      業平

 契沖はこの歌こそ人間がもつ本当の裸の気持ちであるという。ところが業平以降の歌人は臨終に臨んでさえ、如何にも悟道を究めた心にもない歌を詠んで来た。つまり業平は死に臨み一生の真実を詠み、業平以降の歌人は一生の虚偽を詠んだとも言えるのである。日本人は本来が業平であった。ところが業平以後の神道者や歌学者は漢意(儒教)や仏道に捕らわれ虚偽を教え続けて来た。その極端な姿こそが古今伝授である。宣長は僧でもあった契沖が、このように評したことに大きな衝撃を受ける。

 宣長は契沖が業平歌を評価するに従来の歌論を捨て無垢の心で評したこと、並行して歌学者や知識人への批判を堂々と行ったことに驚いたのである。宣長はこれに感銘を受け契沖の跡を継ぐことを決意する。同時に宣長は契沖の取ったこの事実主義、つまり万葉集などの古典(原典)に戻り中世歌論で取り込まれた儒教的、仏教的見地を排した姿勢(すなわち徹底した文献主義)を高く評価し踏襲することを決意する。

 なお鳥越氏は、契沖にこの大業をなさしめたものは契沖の波乱に満ちた生涯からくる人生観もさることながら、当時の時代の空気にもその予兆があったと想定しており、その空気を真淵や宣長が継いだと見ている。なお契沖は芭蕉と同時代に生きた人でもあった。

<つづく>

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