能登真脇のこと <その9>

 第二の疑問点「西洋民俗学と柳田民俗学の違い」を書いてきたが、実は未だ結論に足る記述は出来ていない。さりとて、いまさら西洋民俗学の本を読む気は、いま一つ起らない。以前この種の本を数冊読んでいるが、多くは所謂フォークロア(民間伝承)の話であった。しかもヨーロッパと言う広域な範囲が対象であった。この地方にはこのような話があり、似たような話が欧州のこの国にある、果ては豪州や南アメリカにも同様な話があるという類の話に終始する。いちおうは伝承背景に迫るが、いま一つ迫力がない。つまり過去の民族間闘争に、そして最後は消滅文化という大きな壁に突き当たる。西洋における被征服民族の文化破壊は苛烈かつ徹底している。結局文献学的実証を旨とする西洋学問では、それ以上の進展は望めない。

 第二の疑問に関する結論は、思いがけないところから転がり込んできた。あの悪名高い江上波夫の「騎馬民族征服説」に関係するもので、第三の疑問を調査中に偶然遭遇したのである。「騎馬民族征服説」は、戦後間もない昭和24年2月、日本民族学に関するあるシンポジュウム(石田英一郎、岡正雄、江上波夫、八幡一郎が出席)で発表された。柳田国男はこの説に激高、激しくこれを批判した。実はその批判論の中に潜んでいたのである。

 柳田は「騎馬民族征服説」が発表された二カ月後(昭和24年4月)に開かれた民族学の座談会で、早速司会の石田英一郎(文化人類学、民族学)と激しく渡り合っている。実はこの座談会は二日に分かれて行われ、後に日本民俗学を学ぶ者の間で語り草になった座談会である。一日目はすでに述べたが「日本人の神と霊魂の観念そのほか」というテーマで行われた。日本古来の神を巡る問題で、柳田から折口批判が飛び出す、所謂「まれびと論」批判である。さらに二日目の座談会は「民俗学から民族学へ」というテーマで行われ、柳田と石田が激しく衝突し柳田民俗学と日本民族学との学問的な乖離が「騎馬民族征服説」を通し衆目に曝された。

 柳田はこの日「騎馬民族征服説」に対し、かなり感情的な批判を加えている。柳田にしてみれば、テーマ名「民俗学から民族学へ」からして気に食わなかったかもしれない。以下は梶木剛の「柳田学と折口学」(慶応義塾大学国文学研究会『折口学と古代学』桜風社、H1年11月15日)に拠るもので、柳田はこの座談会で「騎馬民族征服説」に対して以下の点で「大変ヒステリックな批判」をしたという。つまり①大陸主義的視点への嫌悪、②南島の貴重性、③民族学の採る「外側からの視点」への憎悪、④「内側からの視点」の重要性(自国民族への固執)の4点である。

 上記批判①と②、および③と④は裏腹の関係にあり、私の第二の疑問の結論に相当するものは③、④にあった。以下梶木の論を私なりに解釈して紹介する。
 先ず①であるが「騎馬民族征服説」が、あまりに大陸(中国、朝鮮半島)側に偏重したものであるという批判である。大陸は歴史も古く文献や遺跡が豊富なため学者は、ついつい大陸重視に偏重してしまう。その結果大陸側から見た日本解釈にならざるを得ない。それがそもそもの間違いという批判である。②はその裏返しになるが、大陸ではなくもっと南島(奄美、沖縄)を重視すべきと言う批判で、南島を視野に入れない日本論は信用できないという反論である。つまり大陸側からの視点とは全く異なる固有要素に満ちた島嶼文化を重視しなければいけないという論である。

 さらに③の外側からの視点への批判は、④の内側からの視点の重要性を説くもので柳田は、この視点の違いで敢然と戦いを挑んでいるのである。石田はかつてドイツのウィーン大学に、民族学で留学経験を持つ日本民族学の権威である。お互い言葉は選んでいるものの相当にエキサイトした座談になったという。柳田は石田を前にして「俺は民族学は嫌いだ」とまで言い切っている。柳田にすれば「自分の国を外側からだけ見て内側から見ないでどうする」という強い思いがあった。そして、ここが私の第二の疑問に対する解答であった。西洋の民俗学と柳田民俗学の違いはまさに視点の違いであった。「民族学が嫌い」ということは「民族学の持つ外側からの視点が嫌い」換言すれば「外側からしか事物を見ない西洋学」への強烈な批判なのである。私の第二の疑問に対する解答はまさにここにあった。

 以下は余談になるが、石田英一郎は幕末土佐勤王の士で爵位をもつ家系の出で、京都大学中退後はマルクス主義活動に没頭、三・一五事件(治安維持法により共産主義者が大量に検挙された)に連座し入獄経験をもつ。専攻は文化人類学であるが前述したように民族学でウェーン大に留学経験がある。片や柳田は赤貧の「日本一狭い家」に生まれ、もの心つく頃から他家に出され、最後は13歳で故郷(兵庫県辻川)から茨城県布川に移る。その間農民の貧しさを知り経世済民の志を立て、帝大で農政学を学び農商務省の官僚となった。私はこの二人の経歴の差は、学問に対する解釈と視点の差に無縁ではないと思っている。柳田が石田を見る目は、終生嫌った翻訳学問、翻訳学者の姿と重なっていたと想像するのである。

画像
          <子返し(間引き)絵馬>
    柳田国男が少年時代を送った布川、徳満寺にある絵馬。
    少年国男はこの絵馬に衝撃を受け農民の貧しさを知る。
    帝大で農政学を学び農商務省に入る端緒になった絵と
    言える。また政治思想家伊藤幹治が「柳田民俗学には
    文明批評のエスプリと豊かな未来への主体的な願望や
    『国民総体の幸福』を追求する理念があり学問として
    の品格を備えている」と言わせた柳田民俗学の原点と
    も言える。
    「学問とは何のためにするのか」を考えさせられる。

 さて第三の疑問、つまり昭和24年の座談会で明白となった柳田、折口の神に対する観念の違いのことである。柳田の氏神論に対して折口は「まれびと」論を掲げるが、この問題は突き詰めれば両人の思考法の差と言えなくもない。実証法に拘る柳田は、折口の直感めいた思考法を許せなかった。この柳田と折口の関係を、二人はどのように折り合いを付けていたのであろうか。私はそれをが知りたくて神保町古書店や公共施設の図書館を巡り歩いた。その結果ようやく探し当てたものは、気落ちする程の小論であった。先に述べた梶木剛の小論「柳田学と折口学」である。

 私はこの小論の最初の数行を読み、私と同じ問題意識で書かれたものと直感した。その後一読し私の疑問と彼の著作動機は完全に一致していると確信した。さらに読み進めると結論は私がぼんやりと考えていたものとほぼ近いものであった。また私が果たせなかった文献資料による立論がほぼ完全な形でなされていた。
 梶木さん(梶木剛はペンネーム、本名は佐藤春夫)は新潟市の生まれで残念ながら2010年に亡くなられた。高校の教師を長く勤めながら文芸評論家として活躍されたようだ。著書には民俗学、俳文学に関するものが多い。

<つづく>

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