拙守庵閑話

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zoom RSS 能登真脇のこと <その10>

<<   作成日時 : 2018/08/12 12:16   >>

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 梶木剛の小論「柳田学と折口学」を読むと、柳田と折口は折り合いを付けていたのではなく、柳田が折口に「すり寄った」という衝撃的な結論に至る。柳田と折口を知る者には、梶木の「すり寄った」という表現は著しく適切を欠くものと思うかも知れない。何故なら柳田は折口が終生師表と仰いだ存在というのが通念だからだ。しかし梶木の小論を読むと、この表現の背景には二つの理由がある。一つは戦後のある時点で柳田は折口学を受け入れざるを得ない学問的な状況に直面していたこと。二点目は「すり寄った」と言われても仕方がないほど過去において折口に冷淡だったことである。

 因みに私が想定していた「折り合い」は、柳田が民俗学で目指した実証的学問(柳田学)に限界が生じ、その打開策として折口学が必要であった。つまり柳田の帰納的な思考と折口の演繹的な思考が、ある時点で折り合ったとの解釈であった。ただし、その真の「折り合い」が付くのは戦後以後であろうと言う事は、折口の弟子たちの著書で漠然と認識していた程度であった。梶木の見事なところは、この漠然とした私の認識を、両者の著作を時系列に分析することで答えを出している点である。

 さて梶木の分析を紹介する前に「折り合い」について改めて補足しておきたい。この「折り合い」とは、端的に言えば柳田と折口の「神の観念」と「論考法」の乖離を指してのことである。この重要な学問上の乖離にも拘らず、両者は師弟関係にあり日本民俗学における双璧であった。二人は、この乖離を、どのように克服していたのかという「折り合い」のことである。以下その点について梶木の行った分析を紹介するが、理解を容易にするため両者の主たる活動を年表に整理しておきたい。

 ❶大正 9年12月〜 柳田:いわゆる「海南小記の旅」
  大正10年 3月    (九州東海岸、奄美、沖縄)
 ❷大正10年 7月  折口:大正10、12年に沖縄旅行
  大正12年 9月    (「まれびと」の確信を得る)
 ❸昭和21年 12月  柳田:論文「祭日考」発表
 ❹昭和22年 6月  柳田:論文「山宮考」発表
 ❺昭和22年 10月  柳田:論文「折口信夫君とニホのこと」
 ❻昭和24年 2月  シンポジウム「日本民族の起源」
           後に江上波夫「騎馬民族征服説」
 ❼昭和24年 4月  民族学座談会
           ・1日目(4月16日)
            テーマ「日本人の神と霊魂の観念」
           ・2日目(4月18日)
            テーマ「民俗学から民族学へ」
 ❽昭和25年 11月  柳田:論文「海神宮考」発表
 ❾昭和27年 5月  柳田:論文「海上の道」
 ❿  〃  10月  折口:論文「民族史観における他界観念」
 ⓫昭和28年 9月  折口信夫 死去
 ⓬昭和28年11月  柳田:講演「わがとこよびと」(折口追悼会)
 ⓭昭和30年 9月  柳田:論文「根の国の話」

画像
             <伊良子岬>
      愛知県渥美半島の先端にあり、古くは万葉集にも
      詠まれた景勝の地。松尾芭蕉を始め多くの文人が
      訪れている。柳田国男は明治31年24歳の夏に1
      ヶ月滞在する。この時浜辺に流れ着いた椰子の実
      を見て後の<海上の道>を直感する。

 柳田は大正9年突如退官し、後に「海南小記の旅」と呼ばれる足掛け二年にわたる壮大な旅に出る(年表❶)。柳田はかつて学生時代に渥美半島の伊良子崎で、岸辺に流れ着いた椰子の実を見て「日本人の起源は南方にある」と直感したことがある。「海南小記の旅」は、結果的にその思いを深める旅となり、伊良子崎の体験は天啓と確信するようになる。梶木はこの確信を<海上の道>と表現している(蛇足になるが島崎藤村の詩『椰子の実』は柳田からこの時の体験を聞いて詠んだものである)。

 折口は柳田の「海南小記の旅」に大いに刺激され、二度にわたる沖縄の旅を敢行し、後の『古代研究』の中核「常世、まれびと論」の構想を得る(❷)。面白いことに折口も、柳田が伊良子崎で味わったものと同質の体験をしている。大阪での中学校教師時代のことで、教え子を引率し熊野詣をした際、三重県大王崎付近で道に迷う。その時突如、眼前に開けた海を見て「この海の彼方に祖先精霊の世界がある」という直感を得る。後の「常世、まれびと」に繋がる直感であった。

 つまり梶木は。柳田、折口の意識下には過去の体験で得た天啓めいた直感(梶木の言う<海上の道>)があり、沖縄の旅でこの直感を定着させたと見ている。問題はその後の二人の行動にあり、その差が「折り合い」を付けなければならない齟齬を生んだと梶木は見ている。その行動の差とは何か、簡単に言えば柳田は日本民族学の創設に没頭し、折口は、ひたすら自説「常世、まれびと論」の研究に没頭するという差である。このあたりの柳田の機微を、梶木は「自分が発見した<海上の道>の視点を、自分が留守をしている間に折口信夫が独自に開発し、おのれの学問体系を樹立してしまった」と、さらに「知恵の開きの二十何年間」を悔やんでいるとも述べている。小論❺はこのあたりの柳田の機微を表したもので、この時点で、やがて折口学を受け入れざるを得ないであろうという予感の下に書かれたと梶木は見ている。

 確かに小論❺は、折口の二十数年前の発言(ニホの解釈)を取り上げ、その先見性を認めたもので、それまで見せていた折口への冷淡さはない。その上で柳田は「我々はどうも始末が悪い。知恵の開きの二十何年間が情けない」、「折口君の早い暗示を受け入れなかったことの後悔を、ひしひしと感じている」と述べ、「人の長所を大きく組織していかなかったことの損失は計り知れない」と珍しく殊勝なのである。つまりこの小論は柳田が指導者としての非を認め、折口に詫びを入れているようにもとれる。

 ただ、この小論は書かれた時期が重要である。何故なら殊勝になった柳田が一年半後、前述した座談会(❼)で折口の「まれびと論」を批判しているからである。もし梶木の論に難点があるとすれば、唯一ここにあるだろう。柳田の「折口君の早い暗示を受け入れなかったことの後悔」が柳田の論考法(帰納的実証主義)への反省を表し、古代を研究する上での限界を示したものであるならば、❼の折口批判は起きないであろうという矛盾である。

 柳田が日本民族学の創設に奔走中、折口が代表作『古代研究』を完成させたことは既に述べた。しかし柳田が自説「祖霊神」の論考に着手できるのは、ようやく戦後になってからであった(❸、❹)。その際、梶木は『祭日考』(❸)を執筆中、柳田の脳裏に「<海上の道>の視点がかすかに蘇った」筈だと述べる。祭日とは物忌、忌籠りという祭の要素に稲作が深く関わるからだ。その論考過程でニホ(刈り取った稲、ニオとも)とニフナメ(新嘗)が必然的に論考テーマとなる。その時かつて折口が小論「稲むらの陰にて」で「ニホとニフナメは関係がある」と予言したことを思い出したとすれば、この記憶の蘇りこそが小論❺を生み、同時に<海上の道>も柳田の脳裏に蘇った筈であると梶木は推測する。

 ならば、その1年半後の座談会(❼の座談会1日目)において、何故柳田が折口の「まれびと」批判をしたのかという疑問が残る。これに対して梶木は、柳田は当時自説「祖霊神」論考の仕上げ段階にあり、祖霊神と真っ向対立する「まれびと論」は到底受け入れられない論であったこと、また本格的に折口学を受容するのは❻の騎馬民族征服説に対する反論(❼の座談会2日目)以降のことであろうと推測する。

 つまり座談会❼の二日目に、騎馬民族征服説に対して「ヒステリックな反論」をした手前、自らがこれを論証する必要性を強く意識する。その結果、すでに75歳を過ぎていた柳田が、余生を傾け書き上げたものが『海上の道』である。柳田が折口学受容に傾くのは、その過程で醸成されたものと梶木は推測している。

 以上、梶木論を要約すると、『祭日考』の論考で折口の過去の予言が蘇り、その先見性を認め、同時に柳田自身の意識下にあった<海上の道>も蘇える(❸❹❺)。ただし自身の神観念に合わない「まれびと論」は未だ認めていない(❼の1日目の折口批判)。その後、騎馬民族征服説が出るにおよび、その反論(❼の2日目)とその後の論考過程で、折口の<海上の道>と柳田の<海上の道>が20数年の時差を越えて同期したことになる。

<つづく>

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