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zoom RSS 小林秀雄の俳句観を探る <その2>

<<   作成日時 : 2018/12/14 20:30   >>

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 小林は神田猿楽町生まれの江戸っ子である。話に興が乗ると多少べらんめえ口調になる。小林の話、つまり骨董屋の俳句が面白いという話は、数学者岡潔を相手にさらに続く。

 しかしそれは私でなければわからないのです。それがまたおかしな俳句が沢山あるんです。そいつはとても食いしん坊で酒飲みで、道楽者で、死んじゃったのですが、こういう俳句はどうです。「あれはああいふおもむきのもの海鼠かな」、ナマコが好きな奴なんですよ。ナマコで酒飲むでしょう。そのナマコの味なんていうものは、お前たちにはわかりゃしないという俳句なんですね。そういう句はですよ、ぼくがその男を知っているからとてもおもしろいのです。こんなものを句集で誰かが見たって、おもしろくもない。都都逸だか俳句だかわかりゃしない。
(「人間の建設」『小林秀雄全作品25』新潮社、平成16年10月10日)

 「二日月河豚啖(くら)はんと急ぐなり」。柳橋かなんかで芸者をあげるんでしょうが、「来る妓皆河豚に似てたのもしく」なんていう句もありました。そこで私はこのごろこういうことを考えているのですが、結局そういう俳句がおもしろいというのはおれだけだ。その人間を知っていますからね。実物を知っていて読んだということでおもしろいのが俳句だね。( 同上 )

 つまり小林が言いたいことは、「作者を知れば、その作家の俳句を、より深く味わえる」、あるいは「俳句を深く味わうには作者をよく知ること」と言いたいようである。作者をよく知らなければ、「都都逸だか俳句だかわかりゃしない」ものなど面白くもなんともない。作者を知らない者が句集など貰っても、ペラペラめくって終わりだろうと言いたいのであろう。そのことは芭蕉だって同じだろうと、さらに話は続く。

 そうすると、芭蕉という人を、もしも知っていたら、どんなにおもしろいかと思うのだ。あの弟子たちはさぞよくわかったでしょうな。いまは芭蕉の俳句だけ残っているので、これが名句だとかなんだとかみんな言っていますがね。しかし名句というものは、そこのところに、芭蕉に附き合った人だけにわかっている何か微妙なものがあるのじゃないかと私は思うのです。(岡:なるほど。そうですね。)つまり生きている短い一生と生身の附き合いのことですね。鑑賞とか批評とかが、どうも中ぶらりんなものに見えてくる。そういう世界のことなんですがね。( 同上 )

 どうも妙な話になってしまいましたが、たとえば岡さんとお話しするでしょう、そうすれば通ずるということがある。(岡:わかります。いやいや、おもしろいですな。)わかりましょう。それなら、これは私だけの勝手な思いつきではないことになる、こんな妙な話が。もっとも、そんなことばかり考えていたら批評の商売になりませんから、考えません。考えないけれど、頭のどこかにこの考えがじっと坐っている。そこから、なにか普遍的な美学が作れないものですかね。(岡:つくれたらいいですね。)( 同上 )

 小林は、ここで、この話を打ち切るが、この取りとめもない俳句の話の中に小林らしい俳句観が表れているように思う。そのことは対談が進み、次のテーマの冒頭に小林が唐突に話し出す「不易流行」の解釈を読めばさらに明快になる。少し長いが以下に引用する。

 芭蕉に「不易流行」という有名な言葉がありますね。俳諧には不易と流行とが両方必要だという。これは歴史哲学ではありません。詩人の直観なのですが、不易というのは、ある動かない観念ではない。あなたのおっしゃる記憶の力に関して発言されているのではないかと思うのですね。幼児を思い出さない詩人というものはいないのです。一人もいないのです。そうしないと詩的言語というものが成立しないのです。誰でもめいめいがみんな自分の歴史をもっている。オギャアと生まれてからの歴史は、どうしたって背負っているのです。伝統を否定しようと、民族を否定しようとかまわない。やっぱり記憶がよみがえるということがあるのです。( 同上 )

画像
           <共著『人間の建設』>
     岡潔は世界的な数学者。奇行も多く小説や映画のモ
     デルとなった。晩年「日本民族は人類の中でとりわ
     け情の民族である。また知が不得手なため西洋的な
     インスピレーションより東洋的な情操・情緒を大切
     にして分別智と無差別智の働きにより知を身につけ
     るべき」と提唱。さらに現代日本は理性主義・合理
     主義・物質主義・共産主義などで「汚染されている」
     とし、これを「無明」と呼び日本人の将来を憂いた。

 記憶が勝手によみがえるのですね。これはどうしようもないのです。これが私になんらかの感動を与えたりするということもまた、私の意志ではないのです、記憶がやるのです。記憶が幼児のなつかしさに連れてゆくのです。言葉が発生する原始状態は、誰の心ののなかにも、どんな文明人の精神の中にも持続している。そこに立ちかえることを、芭蕉は不易と呼んだのではないかと思います。( 同上 )

 私は芭蕉の不易を、正否は別として、このように解釈する小林秀雄が好きである。世に「不易流行」を解説する著作は多い。だがこの「不易流行」は芭蕉の祖述であるため弟子たちの解釈は極めて抽象的である。せいぜい「万代不易」、「時代を超えて変わらないもの」、「普遍的なもの」という表現で片づけられている。しかし考えてみると、これほど半端な表現はない。小宮豊隆の著書に至っては、不易と流行は一体のものとまで書いてある。それを小林は「誰の心のなかにも持続しているもの」「そこに立ちかえること」と、私から見ればさらに踏み込んだ解釈をしている。私には小林のこの踏み込みがとても魅力的である。一見無頓着に見えるが他の識者にはないユニークな踏み込みを大きく評価したい。

 読者は「万代不易」、「時代を超えて変わらないもの」、「普遍的なもの」と言われても困るのである。何がそういうものなのか、その具体的な中身を知りたいのである。しかし世の識者は、これ以上は絶対に踏み込まない。例えば『奥のほそ道』の解説本で、いちおう何が不易で何が流行であるかを解説した本は世にある。だが、それが何故不易に該当するのかの基準が至って不明瞭である。踏み込まない理由は対象が心の領域であるからであろう。つまり近代学問に最も重要な実証性に欠けるからである。小林はそのタブーを、いとも簡単に破り「誰の心のなかにも持続しているもの、そこに立ちかえる」ことが出来るものこそ不易だと言う。小林には世の識者が陥る近代学問上の枷が全くないように見える。

 この対談は昭和40年8月16日、午後1時から始まった。二人は初対面にも拘らず意気投合し、対談後の酒席でも話は尽きず深夜まで及んだという。この年、小林は晩年の大作となった『本居宣長』の連載を、雑誌『新潮』6月号からスタートさせたばかりであった。連載は11年続き、ついに未完で終わることになるが、本居宣長を書きたいと言う思いは戦前戦中からあり、あしかけ約30年間あたためて来たものであった。その間『古事記』を始めとした古典を読み込み、古典慧眼の士、折口信夫を訪問するなどして、その構想を固めて来た。

 小林の『本居宣長』は昭和52年10月に刊行された。前年11月に未完のまま終わった連載を約一年かけ、単行本として完成させたのである。当時担当した雑誌社の編集者によると、11年間続いた連載は膨大な頁数になっており、約500頁を削ると言う大変な作業であったらしい。菊版(書籍の寸法でA5版よりやや大きい)、厚表紙、貼箱入り、全611頁で当時定価が4、000円という豪華本であった。高価かつ、お堅い本にも拘わらず発売すると、たちまち完売、増刷を重ね10万冊を超える大ベストセラーとなった。パチンコ屋の景品になったこと(それだけ手に入れ難い本であった)、お歳暮やお年賀にも使われたこと、また小林行きつけのウナギ屋の女将さんまで買ったこと等が、ジャーナリズムに取り上げられ一種の社会的現象まで引き起こした。

 ここで私が言いたいことは、昭和40年代の小林の頭脳の大半は本居宣長が占めていたのではないかということである。戦前戦中を入れると実に約40年間、小林の頭脳は本居宣長が占めていたと言っても過言ではない。この小林の頭脳構造と前述した小林の俳句観は密接な関係があったと思っている。結論から申せば、この期間小林の頭脳には近代学問の桎梏(タブー)が微塵もなかったということであろうか。
 
<つづく>

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