飴山実のこと その2

 私の手元に『稲』という表題がついた古めかしい小冊子がある。この三十頁に満たない冊子は行きつけの居酒屋の飲み友達に貰ったものだ。友達とはいえ私とは一回り以上も歳上の熟年者である。共通の話題は俳句で、老友は青年期に沢木欣一の『風』に投句したことを誇りにしている。

 以下は余談である。私が俳句を始めた頃、俳句雑誌で沢木欣一の特集があった。沢木が戦後間もなく金沢で起した俳誌『風』は、俳句の文学性回復を高らかに謳い、全国の若い俳人達がこれに呼応した。またその数ヵ月後に発表された桑原武夫の『第二芸術』論にも鋭く反応した。桑原により徹底的にこきおろされた俳句の可能性を真剣に考えた沢木は、やがて社会性俳句を掲げその実証に入る。これに当時の気鋭の俳人達が呼応し、俳壇に大きな活力を与えた。

 当時私は『第二芸術』論を十分に把握しておらず、左翼思想を根底にした当時の社会性俳句が何を意味するものかも理解せず、ただ単に俳句の可能性をこの記事に見出そうとした。その後、沢木は行き詰まり一時俳壇を去ることになる。しかし『風』創刊時に馳せ参じた俳人達は、その後の日本俳壇を担った。つまり安東次男、金子兜太、飴山實、原子公平、林徹、細見綾子、皆川盤水、栗田やすし、右城暮石、中山純子などである。その意味で俳誌『風』は、その時代を知る俳人達にとって半ば伝説として語り継がれている。

 前述した私の老友は年代的に、その頃の俳壇の空気をリアルタイムに呼吸していたはずである。このため私は老友を生き証人として、当時の話を折に触れて聞いてきた。ある日その老友が「役に立つなら貰って欲しい」と当時の俳誌『風』を数冊私に持って来た。先に上げた『稲』は、その中の一冊で、奥付には発行元が埼玉県足立町志木(現在の志木市)とあり、発行は昭和四十一年一月、第二十九号とある。頁を繰ると紙面の周囲は茶色に変色し印刷は活版ではない、いわゆる「ガリ版刷り」である。老友が『風』と共に投句していた『風』系列の地元俳誌であろう。会員数は同人会員が十七人、雑詠欄投句者(一般会員)が三十人である。

 しかし、この三十頁足らずの俳誌の内容が凄いのである。先ず巻頭に石田波郷、続いて沢木欣一と細見綾子が寄稿した近詠五句の頁がある。次いで『風』同人の飴山實が『稲』前号の同人詠「穂群集」の作品を四頁に渡って評を行なっている。さらに頁を繰ると細見綾子が「草焼き」というエッセイを寄稿している。なんとも豪華な執筆陣である。この飴山の評が実に小気味良い。地方俳誌の同人であろうと容赦はしない。一、二句添削したあと「他の二句は句にはなるまい」とバッサリ切り捨てている。しかし評は的確であり、且つ慈愛が感じられる。印象的な評のタームだけを拾ってみると、以下の通り。

「ことばが、どことなくたるんでいる」
「○○句は、いちばんできているが、おどろかなかった」
「○○という言葉は、役だっていないだけでなく邪魔になっている」
「あとの三句詩心に張りがない」
「秋風や釦が一つ無きシャッツの「シャッツ」はとても困る。これは俳句ではない」

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        < 長谷川櫂(はせがわ かい) >
  1954年、熊本県生まれ、読売新聞社記者を経て本格的に俳句
  活動に入る。中学時代から句作をはじめ、社会人二年目で俳
  誌『槇』に入会、平井照敏に師事する。1989年より飴山實に
  師事。現在、東海大学特任教授、朝日俳壇選者。俳句の古典
  性、伝統性の回復を志向する。東日本大震災を詠んだ『震災
  句集』は賛否両論を巻き起こした。今、ある意味で飴山に学
  んだであろう俳句人生のあゆみ方が問われている。

 飴山は終生、師と俳誌(結社)は持たなかった。どうも俳壇があまり好きではなかったようだ。これは飴山自身が件の鼎談で語っていることであるが、師は持たなかったが兄事した兄貴分は四人いたという。沢木欣一、原子公平、金子兜太、安東次男である。『風』時代の沢木欣一は、彼の性格もあったと思うが、師匠というよりは兄事した感覚であったという。また四人の中では初学の時は沢木、後年は句柄が似ている安東次男に兄事したという。鼎談の中で飴山は、自分の師匠観を次のように述べている。

 ぼくにとって師匠というのは抽象的であって、あの人のいいところ、この人のいいところ、その四人に限らずほかの人、亡くなった人も含めてね。いい俳句や文章がいい師匠だという、たいへん単純なことになっています。(「今日の俳句、明日の俳句」雑誌『俳句』角川書店、昭和55年1月号)

 その飴山を慕い、師事した俳人がいる。長谷川櫂である。三十一歳で出した処女句集が俳壇で注目され新進気鋭の作家と目された長谷川は、やがて大きな壁に突き当たる。その時どのような経緯があったかは知らないが、突然飴山に弟子入りの手紙を出す。入門を許され、その後十一年間原稿用紙に三十句を書き連ね、月に二、三回送り続けた。いい句のみ○印が付され返信されるが、理由やコメントは一切なかったという。自信作が無印で戻り納得がいかず手紙で理由を聞くと、自分で考えなさいという返信があるのみであったという。師も師、弟子も弟子である。

 その飴山が、珍しく喋りまくった座談がある。昭和五十五年一月号『俳句』に掲載された鼎談である。
 次回は、いよいよ飴山俳句の境地に入る。

<つづく>

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