テーマ:行ったところ

行って見たところ 湯抱 <その6>

 柳田は若き日には詩人であった。想像できないことであるが恋愛詩で名を挙げた時期があった。また戦後、戦争責任を問われた茂吉は、あの有名な「現世の歌つくりは、つくづくとおのが悲しきWonne(おんね)に住むがよい」という言葉を残し郷里に隠遁する。高村光太郎も同様であった。共に若き日に詩人として世に出た三人であるが、ハイネの理念に目覚め詩を捨…
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行って見たところ 湯抱 <その5>

 荒神谷・加茂岩倉の大発見は、梅原氏にとっては相当にショックな発見であったと思う。梅原氏には『水底の歌』と並ぶ代表的な著作に『神々の流竄』がある。これも出雲神話は虚構であり出雲には誇るべき文化は存在しなかったという前提に立った著作であった。そこには出雲は誇りうる文化どころか、近畿文化圏における権力闘争の敗者が流刑される地として取り扱われ…
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行って見たところ 湯抱 <その4>

 昭和九年に発行された『鴨山考』を、当時旧制中学生だった古田武彦は貪るように読み耽ったという。やがて、その古田少年も成人し教職に就き、当然のように人麻呂研究に入った。そして皮肉にも『鴨山考』を否定する側に立つことになる。『鴨山考』を最も激しく否定したはのは梅原猛であったが、その梅原もまもなく古田等によって批判される。私が読んだ僅か数冊の…
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行って見たところ 湯抱 <その1> 

 広い石見銀山の観光エリアを一通り見た後、車に戻り運転席を倒して心地よい疲れを癒していた。すると運転席の窓ガラスを叩く音がする。目を開けると制服姿の若い女性が手にした地図を指差し微笑んでいる。どうやら「石見銀山世界遺産センター」の受付の女性らしい。実は車に戻る前に、次の目的地である湯抱(ゆがかえ)への道をセンターの受付で訊ねていたからで…
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行って見たところ<鹿島・その5>延方周辺

 鹿島神宮の拝観を終え町に出ると、塚原ト伝と大書きした幟が数本はためいていた。NHKが塚原ト伝をドラマ化し放映中らしい。ト伝は室町時代、鹿島神宮の神官の子としてこの地で生まれ、剣術修行のため諸国を巡った。なんと相対した剣術者は二百人以上とか、しかも一度も負けたことがないという。その後鹿島に戻り鹿島新当流を開き、この地で没した。剣聖となっ…
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行って見たところ<鹿島・その4> 「鹿島神宮」

 鹿島神宮は常陸一ノ宮で勅祭社である。勅祭社とは、天皇の命により祭礼を執り行う神社をいう。その際、天皇の使が派遣されて奉幣が行なわれる。勅祭社は春日大社や明治神宮など日本に十六社あり、宮内庁の管轄に入るらしい。  四十年ぶりに詣でる鹿島神宮であるが、正直その頃の印象は薄い。門前の商店街は綺麗に整備されてはいるが、どこか昔日の面影を…
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行って見たところ<鹿島・その3> 「鎌足神社」

 四十年前、鹿島に通っていた頃は、当然のことながら根本寺も鎌足神社も全く知らなかった。今思えばその二つとも、当時通った国道五十一号線の直ぐ脇にあったことになる。しかし当時は、寺社には全く無関心であった。有名な鹿島・香取両神宮の直ぐ近くにいながら、休日に、ぽっかりと空いた時間を埋める方策に鹿島神宮を一度訪れた記憶があるだけで、香取神宮に至…
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行って見たところ<鹿島・その2> 「根本寺」

 芭蕉の鹿島詣は貞享四年(一六八七)八月十四日早朝に江戸を発っているが、江戸への帰着日は不詳のようである。鹿島からの帰路、潮来の自準を尋ね三吟を巻いたのが二十五日頃と言われているので、鹿島・潮来には十日以上は滞在していたようである。それにしても芭蕉の移動は敏捷である。早朝に芭蕉庵を発ち夕方には布佐に到着している。布佐では「よひのほど、其…
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行って見たところ <鹿島・その1>

 娘を嫁がせて一か月、無事嫁がせたという安堵感もあってか、無性に旅に出たくなった。式の準備に何かと忙しかった妻の慰労も兼ね、数年行きそびれていた鹿島・潮来方面に行くことにした。幸いネットで北浦湖畔のホテルが取れたので、交通が混み合う連休前に出かけた。  鹿島は二十代半ばから後半に掛けて、東京から通った仕事の地である。しかし、余り良…
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