テーマ:柳田国男

能登真脇のこと <その12、完結編>

 以下、折口信夫追悼集会での柳田の講演内容のことである。追悼集会であり当然のことながら、あからさまな折口批判は出来ない。しかしこの日の柳田の講演は、いつもの柳田の調子ではなかったことが「わがとこよびと」を読むと判る。一言で言えば折口学への共感である。かつて柳田が発表した「折口信夫君とニホのこと」(年表❺)と同質のものが感じ…
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能登真脇のこと <その11>

 柳田の日本民族学創設は大変な事業であったと思う。大学で教える学問として、しかも西洋学問と一線を画する学問体系を整える苦労は並大抵の苦労ではない。有名な家永三郎の柳田民俗学批判、つまり「学問体系が未整備、柳田の個人芸の域を出ていない」という批判は痛烈であったと思う。西洋学の権化のような家永三郎だけではなく、柳田の言葉を借りれば「翻訳学者…
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能登真脇のこと <その10>

 梶木剛の小論「柳田学と折口学」を読むと、柳田と折口は折り合いを付けていたのではなく、柳田が折口に「すり寄った」という衝撃的な結論に至る。柳田と折口を知る者には、梶木の「すり寄った」という表現は著しく適切を欠くものと思うかも知れない。何故なら柳田は折口が終生師表と仰いだ存在というのが通念だからだ。しかし梶木の小論を読むと、この表現の背景…
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能登真脇のこと <その9>

 第二の疑問点「西洋民俗学と柳田民俗学の違い」を書いてきたが、実は未だ結論に足る記述は出来ていない。さりとて、いまさら西洋民俗学の本を読む気は、いま一つ起らない。以前この種の本を数冊読んでいるが、多くは所謂フォークロア(民間伝承)の話であった。しかもヨーロッパと言う広域な範囲が対象であった。この地方にはこのような話があり、似たような話が…
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能登真脇のこと <その8>

 学問は実証的でなければならず、この点では西洋学も国学も同じである。明治8年生まれの柳田は青年期に西洋科学的な実証主義の洗礼を受けており、その重要性は十分認識していた。科学的ということは事実を元に理論を立てることであり、方法論として通常帰納法をとる。その点柳田も徹底した帰納主義を貫いている。民俗学の実証法として宣長の国学に拠ったのも、一…
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『土佐源氏』考  〈その六・完結〉

 確かに柳田には民俗学の確立という大目標があり、方法論を確立する上での焦りがあったかもしれない。雑誌『民間伝承』発刊を契機として民俗学研究者が全国的に広がりはじめた昭和十年頃、柳田は地方の民俗学愛好者(フォークロアー)が土地の民俗調査時に便利な分類法を考案し全国展開を図ったことがある。これは全国に根付きつつあったフォークロアーたちの組織…
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『土佐源氏』考 〈その五〉

 さて、二つ目の宮本と柳田の関係であるが、これは佐野氏の『旅する巨人』を読めば、ある程度把握することが出来る。佐野氏は丁寧な調査で、それまであまり知られていない二人の関係を明らかにしている。しかし、それは全体として私が予想していたものを大幅に超えるものではなかった。宮本には師が二人いたと言われている。渋沢敬三と柳田国男である。ところが宮…
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円の発想 <その6> 

 前章では、七〇年代に米国で起きた「カウンター・カルチャー」について述べた。このムーブメントは、ベトナム戦争の終局と共に下火になるが、五〇年代から約三十年間続き、米国の若者の間で東洋文化が真剣に研究された時期でもあった。このムーブメントで起こったハイク・ブームのハイクは、俳句を文学としてではなく、ハルオ・シラネ氏も言っているように明らか…
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円の発想 <その4>

 「文学は何よりも先ずアミューザンなものでなければならない」  少し寄り道をしてしまったが、柳田国男の「アミューザン」に話を戻したい。上記文章は、柳田の文学観を表すものとして重要である。さらに私は、この言葉に柳田の文学観を超えて、かつて日本人が有していた文学観そのものを感じている。周知のように柳田は日本人というものを、生涯かけて探…
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行って見たところ<茨城県・布川(その2)>

 布川に引っ越した国男少年の生活は、生まれ故郷の辻川時代とは大きく変わった。辻川時代、国男は種痘の失敗から虫持ちになり虚弱児であったようだ。親からは激しい運動は止められ、もっぱら読書して過ごしていたようである。また辻川時代、経済的な理由かと思うが一家は母の実家北条町に一時転居したことがある。その際、国男少年だけが町の素封家三木家に約一年…
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行って見たところ <茨城県・布川(その1)>

 私が柳田国男に興味を持ったのは、俳句の「第二芸術」論関連の著書を漁っている時である。ある文献の中に、「柳田国男は俳諧好みの俳句嫌い」という一文があった。私はそれまで、俳句は俳諧から生まれ俳諧とは同種のものと漫然と思っていた。しかし、どうやら少し違うらしいという疑問が柳田の言葉で芽生えたのである。その後、その相異をもう少し調べてみたいと…
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