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たたら その1 <粕淵から吉田町へ>

 菅谷のタタラを見たいと思ってから、かれこれ30年以上になる。  車は島根県の県道40号線の山塊を縫うように走っている。行く先は島根県雲南市吉田町の菅谷タタラである。湯抱で斎藤茂吉記念館を訪ね粕淵で遅い昼食をとった後、県道40号線を北上し三瓶山の東裾をかすめるように走っている。間もなく国道54号線に突き当る筈である。食後のためか、…
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色の浜 <その2>

 ますほ貝を拾った海岸から寺らしき建物が見えていた。芭蕉や曾良が宿泊した本隆寺はそこであろうと親子に聞くまでもなかった。浜辺から山側に入ったところに海岸線と並行した一筋の細い道があり、その道を隔てて本隆寺は建っていた。どうやら、その細い道が西行・芭蕉の昔から集落のメインストリーであるらしい。この歴史ある道も近年の自動車時代を迎えると自動…
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色の浜 <その1>

 平成25年10月15日、中部地方沖を通過中の台風の影響で梅雨のような雲が空を覆っている。早朝に気比神社と気比松原をめぐり、県道33号線を車で北上し色の浜を目指した。この道は、芭蕉と「奥の細道」を同道した曾良が、その旅日記で「クガハナン所(陸は難所)」と書いている道である。悪路を予想したが、意に反してとても良い道である。その理由は途中の…
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行って見たところ 湯抱 <その3>

 鴨山記念館を車で数分走ると直ぐに湯抱温泉に着いた。坂を上り詰めた右側に共同駐車場らしきものがあり、その側に小さな歌碑公園があった。歌碑は二つあり共に茂吉のものであった。車道の両側に旅館らしき建物が数軒立ち並ぶ小さな温泉地である。現在は三軒の旅館が営業しているようだ。土地の人は「ユガカイ」と呼び、塩分を含んだ28度Cの源泉が近くにある。…
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行って見たところ 湯抱 <その2>

 人麻呂は、ここで死んだのか!  私はある種の興奮をもって鴨山記念館の小さな駐車場に降り立った。周囲を見渡すと鴨山記念館は小さな川の合流点にあった。左手の川は湯抱温泉の横を流れる女良谷川で、正面を流れる尻無川に合流している。その尻無川は下流の粕淵で、江の川となり石見川本を経て江津市で日本海に注ぐ。  かつて斎藤茂吉は、江津市を滔…
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行って見たところ<鹿島・その5>延方周辺

 鹿島神宮の拝観を終え町に出ると、塚原ト伝と大書きした幟が数本はためいていた。NHKが塚原ト伝をドラマ化し放映中らしい。ト伝は室町時代、鹿島神宮の神官の子としてこの地で生まれ、剣術修行のため諸国を巡った。なんと相対した剣術者は二百人以上とか、しかも一度も負けたことがないという。その後鹿島に戻り鹿島新当流を開き、この地で没した。剣聖となっ…
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行って見たところ<鹿島・その4> 「鹿島神宮」

 鹿島神宮は常陸一ノ宮で勅祭社である。勅祭社とは、天皇の命により祭礼を執り行う神社をいう。その際、天皇の使が派遣されて奉幣が行なわれる。勅祭社は春日大社や明治神宮など日本に十六社あり、宮内庁の管轄に入るらしい。  四十年ぶりに詣でる鹿島神宮であるが、正直その頃の印象は薄い。門前の商店街は綺麗に整備されてはいるが、どこか昔日の面影を…
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行って見たところ<鹿島・その3> 「鎌足神社」

 四十年前、鹿島に通っていた頃は、当然のことながら根本寺も鎌足神社も全く知らなかった。今思えばその二つとも、当時通った国道五十一号線の直ぐ脇にあったことになる。しかし当時は、寺社には全く無関心であった。有名な鹿島・香取両神宮の直ぐ近くにいながら、休日に、ぽっかりと空いた時間を埋める方策に鹿島神宮を一度訪れた記憶があるだけで、香取神宮に至…
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行って見たところ <鹿島・その1>

 娘を嫁がせて一か月、無事嫁がせたという安堵感もあってか、無性に旅に出たくなった。式の準備に何かと忙しかった妻の慰労も兼ね、数年行きそびれていた鹿島・潮来方面に行くことにした。幸いネットで北浦湖畔のホテルが取れたので、交通が混み合う連休前に出かけた。  鹿島は二十代半ばから後半に掛けて、東京から通った仕事の地である。しかし、余り良…
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行って見たところ<茨城県・布川(その2)>

 布川に引っ越した国男少年の生活は、生まれ故郷の辻川時代とは大きく変わった。辻川時代、国男は種痘の失敗から虫持ちになり虚弱児であったようだ。親からは激しい運動は止められ、もっぱら読書して過ごしていたようである。また辻川時代、経済的な理由かと思うが一家は母の実家北条町に一時転居したことがある。その際、国男少年だけが町の素封家三木家に約一年…
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行って見たところ <茨城県・布川(その1)>

 私が柳田国男に興味を持ったのは、俳句の「第二芸術」論関連の著書を漁っている時である。ある文献の中に、「柳田国男は俳諧好みの俳句嫌い」という一文があった。私はそれまで、俳句は俳諧から生まれ俳諧とは同種のものと漫然と思っていた。しかし、どうやら少し違うらしいという疑問が柳田の言葉で芽生えたのである。その後、その相異をもう少し調べてみたいと…
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路通

 前回ブログ「余呉湖の雪」で斎部路通(いんべろつう)のことに触れた。路通は慶安二年(1649)の生まれ、一説によると三井寺の寺内で生れたともいわれる。「寺内生れ」には、その言葉自体に薄倖な生い立ちを感じるし、路通の境涯をすでに暗示しているようにも思う。  いちおう三井寺で修行僧として青年時代を過ごしたらしいが、『蕉門名家句選』の路通の…
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タタラ

 以前から行って見たいと思うところが幾つかある。その一つに出雲・吉田の「菅谷タタラ跡」と安来の和鋼記念館(ただし、現在は「和鋼記念博物館」)がある。特に菅谷のタタラは、江戸・明治にかけて良質の鋼(玉鋼)を生産していた。行きたいと思ってからすでに三十年経つ。つまり三十年前に読んだ本(司馬遼太郎『街道をゆく』・「砂鉄のみち」)がきっかけであ…
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余呉湖の雪

 昨年(2011)三月七日、関越道で新潟に出て、ほぼ芭蕉が『奥のほそ道』で辿ったと思われるコース(国道402号線・8号線)を南下した。弥彦、出雲崎、直江津、親不知を経て、滑川に泊まり、翌八日は金沢、安宅の関を経て福井市内のビジネスホテルに投宿。九日は敦賀から近江入りした。近江では湖北地方の十一面観音を数体拝観し、日没と共に余呉湖畔の国民…
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