テーマ:俳諧

円の発想 <その13(完結編)>

 前章では日本人の「ホームポジション」が希薄になりつつあることを述べた。それは取りも直さず「日本人」の心の喪失を意味していると思う。これから書きたいことは俳諧・俳句の心は、日本人の心を取り戻すことに直結しているということなのであるが、たぶん話は相当に飛躍すると思っている。  唐突な話になるが、三十代の頃にSF小説を読み耽ったことが…
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円の発想 <その12>

 前述した森竹さんの記事は、大略以下のように纏められます。  A 生徒のほぼ全員が縄文時代、つまり貧富のない平等な世界を     望んでいる。  B しかし先生は現実社会は、そうでないことを認識させ、その    ような社会を、どう生るかを考えながら自立の精神を身につ    けるよう指導したい。  Aは、小学生低学年だからとい…
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円の発想 <その11>

 私は俳諧・俳句に決して難しい理屈付けをしようとは思わない。しかし俳諧・俳句を知ろうとすると、そう単純な詩形ではないことに気付いてくる。これは俳句を詠まれた方なら何方でも感じることであろう。以前、現代詩をやられた方が句会に出席し、自作への批評に戸惑っている姿を拝見したことがある。そのとき私は気の毒に思い、自分の経験を踏まえた上で率直に「…
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円の発想 <その10>

 私はハルオ・シラネ氏が俳諧の秘めた能力として「古典のテクストと約束事をパロディー化する」点に気がついた眼力は凄いと思う。めったに人を褒めない尾形仂が、ハルオ・シラネ氏を認めたのは氏のこの慧眼を認めたからかもしれない。ハルオ・シラネ氏はさらに。俳諧は古典のもつテクストと約束事の双方に時代が求める「あらたな意味と視点を作り出すため、既存の…
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円の発想 <その9>

 前章で日本人は、人種的に二重構造化され「円の発想」と「区分の発想」の双方を兼ね備るハイブリッドな精神構造を持つことを述べた。ただ日本人の心性として基層を占めるのは、紛れもなく「円の発想」であろう。そしてこの「円の発想」こそ、俳諧・俳句の基底を貫くものであると思っている。私がそのような思いを強くしたのは、哲学者梅原猛氏と歴史学者武光氏の…
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円の発想 <その8>

 民族に伝わる昔話や伝説は、その民族の文化に直結している場合が多い。かつて西洋ではドイツの詩人ハイネが、キリスト教の巧みな布教活動により排撃され絶滅してゆくヨーロッパ及び母国の古い神(つまり個別民族の文化)に心を痛め、伝承や伝説・昔話の保存に力を注いだ話は有名である。  わが国でも明治以降急激に進んだ近代化・国際化の陰で、年々希薄…
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円の発想 <その7>

 私が参加している俳句関係の集団「芭蕉会議」(代表、谷地快一氏)では、例年総会を兼ねた講演会を年末に開催している。その中に印象的な講演が二つあった。一つは島内景二氏の「近世の源氏文化と詩歌」で、他は歌人穂村弘氏の「短歌の楽しみ」である。  前者は『源氏物語』が「文化統合システム」として、江戸後期に重要な役割を果たしたという話で、『…
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円の発想 <その6> 

 前章では、七〇年代に米国で起きた「カウンター・カルチャー」について述べた。このムーブメントは、ベトナム戦争の終局と共に下火になるが、五〇年代から約三十年間続き、米国の若者の間で東洋文化が真剣に研究された時期でもあった。このムーブメントで起こったハイク・ブームのハイクは、俳句を文学としてではなく、ハルオ・シラネ氏も言っているように明らか…
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円の発想 <その5>

 前章では我々にとりアニミズムが古くて新しい問題であることを述べた。その理由として人間の精神的な問題を取上げ、その典型的な例、死生観を上げた。つまり縄文人は、生-死-カミという輪廻再生を信じ、カミに召されるという安寧の臨終観を持っていた。これに対して現代人の死生観は、何か刹那的で他人事のように見える。その原因の一つに自然科学の発達がもた…
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円の発想 <その4>

 「文学は何よりも先ずアミューザンなものでなければならない」  少し寄り道をしてしまったが、柳田国男の「アミューザン」に話を戻したい。上記文章は、柳田の文学観を表すものとして重要である。さらに私は、この言葉に柳田の文学観を超えて、かつて日本人が有していた文学観そのものを感じている。周知のように柳田は日本人というものを、生涯かけて探…
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ほそみ<その10、完結>

 山本健吉は文学者が作家を論じる場合、「ヴォロンテ」(志または意思:著者注)と「メトード」(Method、手法:著者注)を同時に考える必要性を述べている。この言葉は大変重要と思う。とかく「メトード」の解釈が中心となり、「ヴォロンテ」の視点が欠けるため、作者が意図する本質的なものが抜け落ちることが多々ある。  芭蕉がその「メトード」…
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ほそみ <その9>

 芭蕉の風狂と旅との関係を扱った数ある文章の中で最も好きな文章は、山本健吉が若干三十四・五歳で書き上げた二つの小論、「凩の風狂」と「高館」である。それは俳人、川崎展宏の著書から教えられたものである。川崎は、山本の初期評論「高館」と「凩の風狂」、特に「高館」を読んだ時の衝撃を次のように告白している。  「高館」は、もはや、山本氏の評…
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ほそみ <その8>

 江戸時代の文化を「雅」と「俗」でとらえる見方については前段で少し述べた。それまで日本文化を主導した貴族文化、つまり殿上人が築き上げた「雅」は武家政治の鎌倉以降も基本的な潮流として変わらなかったようだ。江戸文化の最初の興隆期である元禄文化は、大筋で上方が主導した。しかしその後政治経済の東漸と同期して文化の主導権は徐々に江戸に移り、二回目…
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ほそみ<その7>

 前述した其角の「草の戸に我は蓼食ふ蛍哉」句が収載されている『虚栗』には、芭蕉の句「朝顔に我は飯食ふ男哉」も載っている。        草の戸に我は蓼食ふ蛍哉      其角        朝顔に我は飯食ふ男哉       芭蕉  堀切実はこの句は其角句に巧みに唱和しながら暗に揶揄した句であると断定し(『芭蕉の門人』)、次…
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ほそみ <その6>

 芭蕉の「ほそみ」が山本の余呉湖畔の体験で、井本農一の「微少なものを通して、その背後の自然や人間の本体をつかむ心」であることが、かなり具体性を帯びてきた。では「ほそみ」とは、そもそも、そのような言葉なのであろうか。ここに残された一つの芭蕉の言葉がある。  「師が風、閑寂を好んで細し。晋子が風、伊達を好んで細し。この細き所、師が流也…
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ほそみ <その5>

 美しく平和な余呉の庄を訪れた鳥共は、果たして武者か、あるいは天女か。  山本は「余呉の海、路通、芭蕉」の中で、遠祖横山長隆の墓参を契機に「この句の味わいが少し違って感ぜられるようになった」と述べている。山本は「少し違って感ぜられる」と書いているが、はなから鳥共を天女とは思ってはいない。つまり実際に余呉の庄に立ち、地の人から賤ヶ岳合戦…
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ほそみ <その4>

 以上、路通句の「余呉」という土地名が持つ言霊というか、その言葉の背景にあるものについて、あらかた述べてきた。さらに言えば余呉という一風変わった里名であるが、これは奈良朝かそれ以前に朝鮮半島から帰化した民が住んでいたことによるらしい。そのような本を読んだ記憶が執筆中に俄に甦り、該当本をいろいろ当ってみた。『日本随筆紀行全集』辺りかと密か…
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ほそみ <その3>

 余呉湖周辺が賤ヶ岳合戦の古戦場だと知ると、さらに思い当たることがあった。やはり、一昨年に近江を訪ねたときのことである。近江探訪の目的は二つあり、一つは義仲寺での芭蕉塚墓参、他は湖北地方の観音巡りであった。前夜は余呉湖畔に投宿して、湖北地方に点在する観音を車で尋ねた。この地方の観音は十一面観音が多い。たぶん平安初期から中期にかけて流行し…
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ほそみ <その2>

 「ほそみ」を知る手掛かりは、やはり芭蕉が「ほそみあり」と言った路通句になるであろう。そこで、改めて路通句を鑑賞してみるが、さっぱりである。此の句のどこに「ほそみ」があるのだろうか。確かに一昨年三月に余呉湖を訪れたとき、湖面には沢山の浮寝鳥が浮かんでいた。しかし浮寝の鳥は、余呉湖に限らず何処でも目にするもので、さして珍しい光景ではない。…
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ほそみ <その1>

    鳥共も寝入っているか余呉の海     路通 路通のこの句に、芭蕉は「この句、ほそみあり」(去来抄)と褒めたという。芭蕉の言う「ほそみ」とは、いったい何だろうと時々考えることがある。文献を見ると、例えば尾形仂編『芭蕉必携』の「ほそみ」の項には、数人の専門家の解釈が紹介されている。その中から代表的な三人の解釈を紹介す…
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やつし

 最近、芭蕉を偶像視しないという見方に触発されている・・・・・。と言うのは、先日友人に貰った井上ひさしの『芭蕉通夜舟』という劇のパンフレットでも、また所属している超結社の主宰(近世文学専攻)の最近の話にも、そのようなニュアンスを感じているからである。  そんなわけで芭蕉の僧体についても少し見方を変えている。芭蕉は俳諧の芯に「禅俳一致」…
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三笠

 かねがね「戦艦三笠」を見たいと思っていた。理由は明治という近代日本の原点を訪ね、そしてその痕跡に直接触れてみたいと思うからである。たまたま九月のある会合でNさんから「記念艦みかさ」のパンフレットを貰いその思いが俄に甦った。また、ある俳句会が横浜で開かれることもあり思い切って出掛けることにした。当日は七時半に家を出て、十時には念願の三笠…
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路通

 前回ブログ「余呉湖の雪」で斎部路通(いんべろつう)のことに触れた。路通は慶安二年(1649)の生まれ、一説によると三井寺の寺内で生れたともいわれる。「寺内生れ」には、その言葉自体に薄倖な生い立ちを感じるし、路通の境涯をすでに暗示しているようにも思う。  いちおう三井寺で修行僧として青年時代を過ごしたらしいが、『蕉門名家句選』の路通の…
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余呉湖の雪

 昨年(2011)三月七日、関越道で新潟に出て、ほぼ芭蕉が『奥のほそ道』で辿ったと思われるコース(国道402号線・8号線)を南下した。弥彦、出雲崎、直江津、親不知を経て、滑川に泊まり、翌八日は金沢、安宅の関を経て福井市内のビジネスホテルに投宿。九日は敦賀から近江入りした。近江では湖北地方の十一面観音を数体拝観し、日没と共に余呉湖畔の国民…
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木綿以前の事

 昨年二月、長年お世話になった俳句結社を辞した。辞めた理由は幾つかあったが、その一つに俳諧(連句)があった。俳諧といっても、その式目(俳諧のルール)の習得とかではない、また「俳諧を極めたい」という大袈裟な目的があったわけではない。少し気取った言い方になるが、「俳諧のこころ」について知りたいと思ったのである。その背景には、世の俳人がこぞっ…
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