たたら その2 <吉田町菅谷>

 『砂鉄のみち』の冒頭は、司馬独特の文体で次の文章で始まる。

 あたり前のことだが、私は民族と言う、意味ありげな呼称で呼ばれる
 人間の集団に、少しも神秘性を感じない。
 ただ、多少の奇妙さを感じる。

 この冒頭の文は、当初軽く読み飛ばしていた。しかし読み返しているうちに、このさりげない文章が、実は司馬の生き方を示唆する重要な文章であることが判って来た。ただ、それに気付くのはごく最近で、少しばかりの苦労と幾ばくもの本を読みこんだ結果として判ってきたように思う。
 「民族」という言葉は、司馬の言い方を借りれば確かに「意味ありげ」な言葉のように思える。しかし、実際のところは我々庶民にとり、さほど重要な言葉ではないと云う事が判って来る。少なくとも庶民側に立った言葉ではないように思う。歴史を少し知ると、時の為政者に至極便利に使われている言葉が「民族」であることが次第に判って来る。

 例えば為政者間の権力闘争の方便として、あるいは一国のナショナリズム高揚策として頻繁に利用されてきた言葉だと気付いてくるのだ。現在でも世界を見渡せば、例えば隣国では為政者の政権支持率向上策として、或いは政権批判の矛先回避策として頻繁に利用されている。また批判された国の政権も、抜け目なくこれを逆利用し民俗抗争へと争点をすり替えている。北欧や中東に目を移せば、地域抗争の真因を深掘りさせない方策として「民族(紛争)」が便利に利用されてきた。

 戦前・戦中・戦後を生きた司馬には、この為政者や評論家の好きそうな言葉が、如何に好い加減なものか痛いほど分るのであろう。現に司馬は『砂鉄のみち』において、朝鮮半島の人々を日本に製鉄を始め様々な文物もたらした同胞として深い友情の眼差しで見ている。その証拠に『街道をゆく』の最初の街道は「湖西の道」から始まる。なぜ湖西かと言えば、司馬の頭には湖西から通じる朝鮮半島への道がはっきりと見えるのであろう。

 湖西は奈良朝の昔から、すでに大量の渡来人が朝鮮半島から渡来している。この朝鮮半島からの渡来人は、湖西に限らず日本の各地に渡来し、その地で様々な先進文化をもたらし、やがては日本人に同化して行った。
 冒頭文の「多少の奇妙さ」とは、歴史的に同胞と呼べる朝鮮半島の人間と、日本人のもつ気質の差を「奇妙」と表現しているのだ。この冒頭のさりげない文章は、実はそのことが下地にあったのだと、やがて気付くのである。この同胞達は、この百年不幸にして互いを罵倒し合っているが、司馬にはそのような卑小瑣事は眼中にない。

 蛇足であるが、司馬のこの思いは、かつて柳田国男が民俗学を立ち上げる際、従来の「民族学」のもつ目線の高さを嫌い、常民(庶民)視点での学問を「民俗学」の根幹に置いた事実と重なって見える。この本を読み返していると、他にも司馬の目線の低さに気付くことが多々ある。これは司馬の思考が世の知識人に比べ、我が国の風土への関心が極めて高い証左ではないかと思う。だからと言って巨視的でグローバルな視点が欠けているかというと決してそれもない。つまり他の知識人と比較し、重心の掛け方が、より日本風土と庶民側にあるだけのことではないかと思っている。

 風土に根を張るという点では、日本の民俗学の著作者と同様のものを感じるが、宮本常一のように地に「這い蹲う」というところまでは行かない。しかし「日本人とは何か」を説くのに、世界的な視点(換言すれば為政者側の視点)ではなく足下から見ようとしている点では一致したものを感じるのだ。

 この本で司馬が言おうとしていることを、結論的に言うと以下のようになる。
 ・日本人はアジアの中で、いや世界的に見ても特異な人種である。
 ・その理由を突き詰めると日本列島の自然に帰結する。
 ・さらに付け加えるなら砂鉄製鉄がある。
つまり司馬は『砂鉄のみち』で、「日本人の特性は日本の自然と砂鉄製鉄がもたらしたのではないか」と言いたいのではないかと思うのである。

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          <解体中の高殿(外観)>
   高殿は平成24年10月30日から5年間の修復工事中で
   青テントが張られていた。訪れた日は休日で工事は休みで
   あったが、朝日施設長が快く高殿に招き入れて説明して呉
   れた。修復は宮大工が当たっていると言う。


 吉田町にはすぐ着いた。司馬の表現では「吉田川の細流にさからって道をたどると、やがて地形が迫になり、そこが吉田町である」ということになる。まさにその通りの光景であった。迫(さこ)とは、関西地方では道の行き止まり、つまり袋小路を意味する。町に入ると直ぐに観光案内所兼特産品販売所が目に入った。そこで菅谷までの道を聞くと簡単な地図を呉れた。それを見ると菅谷は吉田町のほぼ中央で左折し、北側に屏風のように横たわる山を越えた谷あいにあった。

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          <解体中の高殿(内部)>
   江戸時代(嘉永三年、1850)に建てられた高殿は約300年
   操業を続けて来た。操業中のたたらは高温で炎は高く屋根
   まで達するため常に火災の危険に曝されていた。
   300年間高殿を支えて来た木材は真っ黒に煤けていたが、
   大部分の木材は再度使われるようだ。

 屏風のような山の急坂を登りつめると、今度はつづら折りの急坂となり、降り切ると直ぐに菅谷高殿の案内板があり、左折を指示していた。看板のたもとには川幅2,3メートルの小川が流れている。その小川沿いに数キロ走り、左にカーブし右にハンドルを切り直すと、いきなり写真で見覚えのある桂の木が目に飛び込んできた。その瞬間、「着いた!」という感激と、「やっぱり」という失望感が同時に心を駆け抜けた。高殿が解体に入ったのは知っていたが、未だ外観は見れるのではないかという一抹の期待を持っていた。しかし、そこにはあの荘厳な高殿の姿はなく、その代わりに巨大な青テントの塊があった。

<つづく>

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