拙守庵閑話

アクセスカウンタ

zoom RSS 能登真脇のこと <その8>

<<   作成日時 : 2018/04/28 16:03   >>

驚いた ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

 学問は実証的でなければならず、この点では西洋学も国学も同じである。明治8年生まれの柳田は青年期に西洋科学的な実証主義の洗礼を受けており、その重要性は十分認識していた。科学的ということは事実を元に理論を立てることであり、方法論として通常帰納法をとる。その点柳田も徹底した帰納主義を貫いている。民俗学の実証法として宣長の国学に拠ったのも、一つは宣長が古典(万葉集)に戻るという文献主義的実証法を採用していたからである。

 その点、柳田は同士とも呼べる折口が折々見せる演繹的発想を好まなかったようである。柳田は折口の思考法による代表的な産物とも言える「まれびと論」を二度にわたり批判している。一回目は大正14年に柳田が刊行する雑誌『民族』の創刊号に折口が寄稿した『常世及びまれびと』の掲載拒否である。寄せられた原稿を読み「こんなものは載せられない」と一蹴したのである。二回目は昭和24年に行われたある座談会の席上での「まれびと論」批判である。この座談会での二人のやり取りを読むと当時の二人の位置関係がよく分かる。師表と仰ぐ柳田に婉曲に批判される折口の心情に同情の念さえ覚える。しかしこの折口の論は後に『国文学の発生』という折口の代表的な論考となり大作『古代研究』の重要な地位を占めることになる。

 以上、柳田民俗学が如何に実証性を重視したか、またその方法論として科学ではなく、なにゆえに国学(歌学)に拠ったかが解明された。しかし柳田は、晩年に至りその実証法にさえも大きな疑問を抱くことになり、そのことで折口を再評価することになるのである。このことは後ほど述べたい。

画像

     生涯独身であった折口信夫は門人藤井春洋を養子に
     するが、硫黄島で壮烈な戦死する。二人の墓は春洋
     の生地能登一宮(羽咋市)の気多大社近くの藤井家
     墓地内にある。(写真:藤井家の墓碑は何故か藤井
     ではなく藤原とある)中央白い標識杭の横の方形な
     石碑が二人の眠る墓である。碑には折口の筆で、
     「もっとも苦しきたたかひに最くるしみ死にたるむ
     かしの陸軍中尉折口春洋ならびにその父信夫の墓」
     とある。折口は春洋の忌日を米軍上陸の日と決め
     「南島忌」と命名し毎年供養した。

 ここまで書いてきて再び幾つかの疑問が湧いてきた。一つは私の当初の目的であった真脇縄文人の心情にまで遡れるのかという懸念、二つ目は西洋民俗学と柳田の目指したものとの差は何か、また柳田はそれをどう思っていたのか。三つめは論考方式の違う柳田と折口は日本民俗学と言う学問分野でどう折り合いを付けていたのかという疑問である。後者二つは私が長年解けずにいる(厳密にはその努力を怠ってきた)疑問でもある。この際解いておきたいと思い幾つかの文献を当たってみた。

 まず一つ目の問題は本論の主題でもあるので最後に述べるとして、二つ目の問題、所謂西洋学の民俗学と柳田の起こした日本民俗学はどこがどう違うのか。そして柳田はその違いをどう認識していたのかという疑問である。調べてみると柳田が日本民俗学の学問的な体系整理を急いでいた当座は、どうやら西洋民俗学は存在すら知らなかったようである。折口信夫の回想文『先生の学問』を読むと、柳田一門の誰かが「西洋のほくろあ」の本を偶然発見、内容が柳田の指向する学問に似ていることを柳田に伝えたようだ。しかし柳田は一通りの興味は見せたが、それ以上の興味は示さなかったようである。その理由を折口は以下のように述べている。

 ともかく、先生も長い間の暗中模索の末に、西洋のふおくろあの本に行き当たられたものと思ひます。さう言う落ちつきは、予め西洋に用意せられてゐた。先生自身もご存じなかった。だから先生に創始せられた日本の民俗学は、明治の「大学の学問」が、凡(おおよそ)翻訳して輸入した―其とは全然違ふ。結論は用意せられてゐても、其処に到る道程は、西洋人がしたように、先生自身苦しんで歩いて行かれたのである。翻訳の懐(ふところ)学問ではない所以です。この暗中模索期間の苦悩を考へて見ることが、我々には、ためになります。(折口信夫『先生の学問』)

 私はこの文章を読み改めて柳田が好きになるとともに、その柳田の姿勢を理解し評価していた折口の知見を偉いと思った。そして発想法や意見が違っても折口が終生柳田を師表と仰いでいた理由はこれだと納得した。つまり明治以降まったく無批判で入った学問(翻訳学問:柳田はこれを「借り物の学問」、折口は「懐学問」と呼んだ)への不安と批判がこの文章から解る。自国民が自ら産みの苦しみを伴わない学問は学問ではないという考え方である。折口はそれを「西洋人がしたように、先生自身苦しんで歩いて行かれた」と表現している。

 前出の「西洋人がしたように、先生自身苦しんで歩いて行かれた」その先、つまり柳田の着地点は当然のことながら西洋のそれとは異なる。前出の鳥越氏は柳田の着地点を自著で政治思想家伊藤幹治の言葉を引きながら「柳田民俗学には文明批評のエスプリと豊かな未来への主体的な願望や『国民総体の幸福』を追求する理念があり学問としての品格を備えている」と述べている。学問に自国民の魂を埋め込むという重要性を柳田も折口も熟知していたのであろう。自国民の心で考え、産みの苦しみを味わってこそ本当の学問と二人は信じて疑わなかったようである。柳田が自から興す学問を一時期「新国学」と呼んだのも上記の理由からであろう。

 このことを端的に表現した柳田の言葉として次のような言葉がある。
 「私などのいやでたまらぬのは受売(うけうり:筆者注)と翻訳、ちがつた国語でもう外国人が云つてしまつたことを、そつくり持つてきてへい是が学問と、云はうとする者の頭を出すことである」(柳田国男「祭日考」(『柳田国男集―第11巻』筑摩書房)

 柳田のこの姿勢は終生変わらず、この風をもった漱石門下生(例えば阿部次郎、天野貞祐、和辻哲郎、小宮豊隆など)や戦後の若い文化人(例えば小林秀雄、桑原武夫など)が行った外国学問の無批判な国内移入を激しく非難したことがある。学者や文化人が自ら産みの苦しみを味わうことなく国外の学問や論文を国情に合うかを十分に評価せず、さも自説のように得意気に吹聴する輩が許せなかったようだ。その行為が日本の文化をどれだけ破壊し、結果として大きく国益を損ねることが二人には見えていたのであろう。

<つづく>

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
驚いた

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
能登真脇のこと <その8> 拙守庵閑話/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる