拙守庵閑話

アクセスカウンタ

zoom RSS 能登真脇のこと <その11>

<<   作成日時 : 2018/09/01 14:31   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 柳田の日本民族学創設は大変な事業であったと思う。大学で教える学問として、しかも西洋学問と一線を画する学問体系を整える苦労は並大抵の苦労ではない。有名な家永三郎の柳田民俗学批判、つまり「学問体系が未整備、柳田の個人芸の域を出ていない」という批判は痛烈であったと思う。西洋学の権化のような家永三郎だけではなく、柳田の言葉を借りれば「翻訳学者」達が大勢を占める最高学府の中で、一つの学問分野を起こす苦労は大変なものであろう。柳田が帰納法的実証法に長年拘わった理由も一つはここにあったと思う。

 その点、比較的自説の研究に没頭できる環境にあった折口が柳田は羨ましかったと思う。柳田の嘆き「知恵の開きの二十何年間」とは、まさにこの期間のことであろう。片や折口も柳田の苦労を知らない筈はない、むしろ痛い程その意義を理解していたのである。そのことは戦中の生活を描いた柳田の『炭焼日記』でも垣間見れる。柳田への表裏ない師表の礼や物資不足を気遣う献身的な折口の姿勢である。再掲となるが折口の『先生の学問』の以下の一節は当時の折口の心情を吐露したものであろう。

 先生に創始せられた日本の民俗学は、明治の「大学の学問」が、凡(おおよそ)翻訳して輸入した―其とは全然違ふ。結論は用意せられてゐても、其処に到る道程は、西洋人がしたように、先生自身苦しんで歩いて行かれたのである。翻訳の懐(ふところ)学問ではない所以です。この暗中模索期間の苦悩を考へて見ることが、我々には、ためになります。(折口信夫『先生の学問』)

 さて梶木論に戻ると、梶木論には後段素晴らしい結論がある。柳田学と折口学の見事な整合である。以下その整合について順を追って説明する。この説明には前掲年表の後半が必要となる。

  ❽昭和25年11月 柳田:論文「海神宮考」発表
  ❾昭和27年 5月 柳田:論文「海上の道」発表
  ❿  〃  10月 折口:論文「民族史観における他界観念」
  ⓫昭和28年 9月 折口信夫 死去
  ⓬昭和28年11月 柳田:講演「わがとこよびと」(折口追悼会)
  ⓭昭和30年 9月 柳田:論文「根の国の話」

画像
              <大王崎>
      折口が「常世、まれびと」を直感した場所である。
      ここに立つと沖合の船はマストから現れるという。
      地球が丸いことを実感できるロケーションとして
      も有名。私の好きな映画、小津安二郎『浮草』の
      ロケ地でもある。

 「騎馬民族征服説」にヒステリックな反論をした翌年、柳田は老体に鞭打ち論文「海神宮考」(年表❽)を書き上げる。この「海神宮考」は、柳田の氏神論の延長線上で書かれたという巷説がある。つまり親族が死亡すると霊は近隣の山頂に宿り、祖霊神となり遺族を見守る。このため山頂に磐座(山宮)を建て祖霊を祀った。ところが稲作の普及により徐々に人々が平地に移住すると、山宮も里に下り里宮となった。この里宮の変形が川宮や海宮であり「海神宮考」もその流れに沿って書かれたものという見方である。

 しかし梶木は「海神宮考」を、そうは見ず「海上の道」を書くための準備の書と見た。日本人は大陸から来たという「騎馬民族征服説」に真っ向から対決するには、以前から持ち続けていた視点<海上の道>を自分なりに整理しておく必要があったからである。つまり「常世、龍宮、海宮の原像が南島に求められている」「南島から<海上の道>に従って本土の方へ何物かが伝わった」という視点(<海上の道>)を理論化するための前準備である。ところが梶木は「海神宮考」を読み返すうちに、柳田の神観念が微妙に変化していることに気付く。そこには柳田が長年拘って来た氏神の観念が喪失していたからである。

 それから二年後、柳田は「海上の道」(年表❾)を発表する。内容は当然であるが、日本人は「騎馬民族征服説」にあるような大陸からの移動民ではなく、稲作と共に南方の島々から北上してきた海洋民族であるというものである。かつて「海神宮考」で述べた「常世、龍宮、海宮の原像が南島に求められている」という仮定を、南島諸島や本土に残る多くの民間習俗を綿密に調査し、その成果を民俗学的根拠として上げたものである。
 なお後年(昭和36年)出版される『海上の道』は、言わば柳田の<海上の道>に沿ったアンソロジーである。つまり上述した「海上の道」を中心に、「海神宮考」や後述する「根の国の話」など、主に昭和26年〜30年に発表された論文集である。

 さて、ここで事件が起こる。折口が最晩年に至り柳田批判ともとれる論文「民族史観における他界観念」(年表❿)を発表したのである。私はこの論文の意義は非常に大きいと思っている。この論文こそ、折口自身が「柳田学」と「折口学」の折り合い方を自ら付けたものと言えるからである。この論文を要約すると、氏神信仰や宮廷信仰に代表される祖霊信仰の前に「他界にゐる祖裔関係から解放せられ、完成した霊魂」信仰があったという論である。しかし梶木はさらに一歩踏み込んだ解釈をとる。つまり、この論は例の座談会(昭和24年4月)における柳田の「まれびと」批判に対する折口の反論であると読み取る。以下梶木の論を紹介する。  

 今生の人間と祖裔関係を持っている祖霊、その祖霊は新しいものに過ぎないのです。宮廷神道、あるいは古代の地方誌類を含めて、それは新しいものに過ぎない。それ以前が想定されなければなりません。そう考えるなら、これはちょうど、先ほど言いましたように柳田さんが座談会の中で折口さんを揶揄したことに対する批判だと見ることができます。(梶木剛「柳田学と折口学」)

 梶木が言うように、この論文が柳田への批判としたら、柳田はこれをどう受け取っていたのかという関心が湧いてくる。梶木の偉いところは、これを苦労の末に探し出したのである。折口の追悼集会での柳田の講演資料であった。この資料は柳田の全集にも、また折口の全集にもない。折口追悼集会の翌年1月に発刊された『神道宗教』第6号に「わがとこよびと」(年表⓬)という題で掲載されていた。梶木はこれを読み驚く、まぎれもなく折口の批判に対する柳田の回答になっていたからである。

<つづく>

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
能登真脇のこと <その11> 拙守庵閑話/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる