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zoom RSS 小林秀雄の俳句観を探る <その1>

<<   作成日時 : 2018/11/04 20:29   >>

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 小林秀雄は俳句を嗜まなかったようだ。だから小林の著作には俳句の話はあまり登場しない。少なくとも私が読んだ範囲ではなかった。反面、和歌は多く登場する。だが小林は和歌も詠まなかったようだ。小林は戦中から晩年まで日本の古書を読み古人の叡智を探った。和歌についても晩年の大作『本居宣長』を通して、並みの歌人では太刀打ちできないほどの歌論に通じていた。この小林の姿勢、つまり歌論に詳しいが歌は詠まない、詠んでも下手というスタイルは、どうやら江戸初期の国学者に多く見られるスタイルのようだ。契沖は歌を詠まず、賀茂真淵、本居宣長も歌は詠んだが下手だった。にも拘らず彼らはそのことをまったく意に介しなかった。

 彼ら(国学者)が、意に介さなかったのには理由がある。彼らは、歌論を単に歌の理論とは考えずに、我が国独自の思想として捉えていたからであろう。わが国の歌論(あるいは歌学)というのは、それだけスケールの大きな枠組みをもっていたとも言える。歌人はその時代、その時代の歌論が保有する枠組み(空間)の中で歌を詠み、大衆もその歌を通して時代の空気を味わっていた。少なくとも国学者はそう考えたようである。逆に言えば歌論は、時代が志向する思想を敏感に取り込んでいたとも言える。何しろ新聞もテレビもない時代である。このため近世以前の歌人の多くは世論をリードできる特定の立場にあった文化人(貴族、僧侶)であった。

 話を小林秀雄に戻すと、小林が和歌も俳句も詠まずに歌論を論ずるのは、上述した理由からで特段何の問題もない。ついでに言えば、山本健吉が俳論に長けていたが俳句を詠まなかったのは、自分が上述した系譜に連なるという自覚の下であろう。山本は折口信夫の慶応時代の教え子である。川崎展宏などの著作によれば、山本の俳論には折口の影響が色濃くあるようだ。折口と言えば柳田国男と並ぶ日本民族学の双璧であり、共に国学の影響を強く受けている。つまり山本は俳論を一つの思想として見ていた節がある。

 その小林が俳句を論じたことを、ネット(YOUTUBE、チャンネル「信州読書会」)で偶然知った。昭和40年に行われた数学者岡潔との対談の中である。その様子は小林の全集『小林秀雄全作品25』で読むことができる。「人間の建設」という、えらい真面目な題をもった対談の中である。これを読んでみると小林の数あるエピソードの中のひとつ「李朝の徳利」事件の後日談であることが分る。数ページであるが現代の俳壇では聞けそうもない小林らしい俳句観を披露している。続くゴッホ作品の話にも通底する何かがあり、作品と鑑賞の関係について考えさせられる内容である。


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        小林秀雄<明治35年〜昭和58年>
     近代日本の文芸評論の確立者、晩年は保守文化人
     の代表者であった。編集者、作家としても活躍。
     敗戦直後の占領下、「右翼的文化人」から「左翼
     的文化人」に転向した大多数の知識人の中で「僕
     は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと
     反省してみるがいいじゃないか」といって当時の
     知識人を皮肉った話は有名。(Wikipediaより)

 小林は酒が好きである。戦後間もないころ雑誌社主催の宴席で、しこたま酒を飲み、お土産にもらった一升瓶をさげたまま御茶ノ水駅のホームから崖下に転落、九死に一生を得たこともある。他にも焼き物の骨董趣味があり、馴染みの骨董屋もあった。その骨董屋で見た李朝の徳利が気に入り何度も通うが、店の親父が頑固者で売ってくれない。その親父も酒好きで、そのうちにその徳利で一緒に酒を飲む間柄となる。飲みながら折を見て談判するが応じない。そうしているうちに28年が過ぎる。ある日、業を煮やした小林が酔いに任せて「お前さんが危篤の電報をよこしたら返すよ」と、その徳利を持ち帰ってしまう。以上が「李朝の徳利」事件のあらましである。そして、その後日談が岡との対談で話される。

 数年後、骨董屋は他界するが小林に電報はなかった。その代わり息子が訪ねて来て「一周忌に親父の句集を出すので、約束の序文を書いて欲しい」と言う。小林は唐突な話に戸惑う。まず親父が俳句をひねっていたこと自体知らなかったし、序文を約束した覚えもない。そう言うと、息子は親父の日記を見せ「二人で飲んだとき小林が序文を約束した」との証拠を突き付けられる。しぶしぶ引き受け、その俳句ノートを見ると、いかにも素人っぽい俳句が鉛筆でびっしり書いてある。俳句を読み始めるとなかなか面白い。そして、その時に感じた俳句鑑賞に対する思いを岡潔に披露する。その話が如何にも小林らしい。以下、引用する。

 その俳句を読んでいったら、「小林秀雄に」という詞書きが出てきましてね、「毒舌を逆らはずきく老の春」という句を詠んでいるのです。考えてみたら、それは私が徳利を持って帰った日なのです。そしてその次に「友来る嬉しからずや春の杯」と言うのがあるのです。その日なんです。「毒舌を逆らはずきく」ということは、つまりぼくが徳利をもっていったということなんですわ。(中略)それから私は俳句というものを少し考えちゃったのですよ。芭蕉とかなんとかいったって、おもしろいということになると、このほうが駄句だけど、私にはおもしろいのですよ。(小林秀雄『小林秀雄全作品25、人間の建設』新潮社、平成16年10月10日)

 蛇足だが小林の毒舌は相当なものであったらしい。酒が入るとさらに輪がかかったらしい。文士仲間の集会があると小林の毒舌を嫌い人が寄り付かず、娘の嫁ぎ先の姑である白洲正子に至っては胃潰瘍になったというエピソードさえある。また後々のごたごたを恐れ、小林の著書の「あとがき」の書き手がなく、そこそこ気の合った田中美知太郎が、その多くを引き受けていたという話も実しやかに伝わっている。骨董屋の親父が徳利を売らなかったのは、案外小林の毒舌を酒の肴にして楽しんでいたのかも知れない。

<つづく>


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